日本のお菓子として代表的なものの一つとして「饅頭」が挙げられる。饅頭そのものの歴史は長く、650年以上にも遡るのだという。
時代から遡ると、室町時代から遡り、足利将軍や戦国武将も食したほどであるのだという。饅頭の歴史は本書で紹介する老舗「塩瀬」そのものの歴史でもある。その歴史を「塩瀬」の女将が語ったのが本書である。
第1章「運命との出会い~私のまんじゅう人生はここから~」
著者の「まんじゅう人生」は、1980年に遡る。その年は著者の母が亡くなり、著者が塩瀬の女将を継いだ時であった。630年以上にも及ぶ長い歴史と伝統を受け継ぐ重さ、そして商売をする意味の重さを背負いながら、自分らしく商売を行う子とを誓っている。
第2章「始祖・林浄因を巡る旅~碑建立と中国との交流~」
伝統と歴史の重みを知りながらも、塩瀬の歴史に対する好奇心が芽生えた著者は市於勢の歴史を様々な史料をもとに探って行くが、その中で饅頭、もとい塩瀬の始祖について取り上げた。
その名は「林浄因(りんじょういん)」。
林浄因は元々中国大陸の明の時代に生きた僧侶であり、日本における禅師と謁見するために、日本にやってきた。やってきたときには南北朝時代であったため、朝廷も北と南で対立していた。林浄因は南朝にいた。その際に振る舞われたのが饅頭であり、中国大陸では肉などを詰めて食べていたのだが、日本が肉食禁止立ったことを知り、小豆を煮詰めて餡をつくり、和菓子として振る舞われたのが始まりであったという。
第3章「私の「饅頭の歴史」探し~「林家・南家」と「林家・北家」から「塩瀬」へ~」
林浄因から始まった日本における饅頭の歴史は、幕府・朝廷ともに広がりを見せ、南北朝の対立と同じように「林家」もまた、「北」と「南」に分かれ、それぞれの流派を磨いていったのだという。やがて南北朝は統一された後は、北家が老舗「塩瀬」となり、「塩瀬」としての歴史が始まった。
本章で印象的な所をもう一つ挙げると、室町時代の賭事の一つとして「闘茶(とうちゃ)」と言うものがあったのだという。これはお茶会の遊技の一つであり、
「亭主も客も派手な錦繍(きんしゅう:錦と刺繡を施した織物、または美しい衣服または織物を指す)」をまとって行われ、“本の茶” “日の茶”を飲み当て、その得点によって勝敗を決める賭博的遊戯」(p.49より)
とある。簡単に言えば、お茶の飲み比べを行うゲームであるという。本の茶と非の茶の違いは茶所のお茶か、そうでないお茶かという違いである。
第4章「将軍のお膝元で商いを始めて~江戸時代、塩瀬のその後~」
「塩瀬」は室町時代から幕府家御用達、天皇家御用達のお墨付きをもらい続けた。やがて時代は江戸時代に入り、塩瀬は京都から江戸に渡っていった。江戸でもさらに繁盛を続けながら幕府や天皇家の御用達としての矜持を保った。
第5章「御菓子の神様と呼ばれた父、そして母~和菓子の老舗として、宮内庁御用達として~」
言うまでもないのだが、著者の母は塩瀬の先代女将、父は菓子職人だった。著者の菓子教育の基礎も父と母の薫陶あってのことであるが、同時に家庭教育そのものの重要性を学んだとされている。それは老舗・塩瀬の人であることと同時に、「宮内庁御用達」を保ち続けることそのものにある。
第6章「日々創業の気持ちで暖簾を守る~感謝、感謝で心を鍛えて~」
やがて時代は変化を遂げ、デパートの出店など、食の事情も変化を遂げていった。しかし伝統は保ち続けている。その伝統は変わらないものもあれば、時代に合わせて変化を遂げていくものもある。「日々創業」の魂はこれまでも、そしてこれからも生き続ける。
日本における饅頭の歴史は、「塩瀬」の歴史そのものである。そして塩瀬は時代を超え、多くの人々に愛され続けながら、今日もまた和菓子を作り、私たちの元へ振る舞い続ける。
そしてもう一つ、著者の人生観を一つ取り上げたいと思う。
「「こだわりすぎる」ということをしては、運は開けないと思っています。「こだわりすぎず、柔軟な考えでいれば自ずと、道は開けるもの」」(p.168より)
伝統に強くこだわるわけではなく、自然な形で伝統を変化し、そして続けている。その足跡は自然に子息たちに伝わり、今日の伝統を守り続けている証拠と言える。
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