シリーズ「1968年を知らない人の『1968』」~第三日「大学闘争① 慶大・早大・横浜国大・中大」

(2日目に戻る)

現在呼ばれている「学生闘争」は1965年1月に起こった、慶應義塾大学の闘争から始まる。
本書では紹介されていないが、同年9月の高崎経済大学で起こった闘争は後に「圧殺の森」でも取り上げられた。

その「学生闘争」の呼称であるが、闘争の中心が大学であることから「大学紛争」と表記していることが多い。しかし、この表記も大学教授や大学関係者をはじめとした学生闘争に批判的な人物がよく使われる呼称である。反対に学生闘争関係者など闘争を指示・実行する方々は「大学闘争」と表記することが多い。他にも最初に書いたような「大学紛争」や高校・予備校闘争も含めて「学園闘争(または紛争)」と扱われており、文献によっても表記はまちまちである。

3日目は「1968」の本の中核としてあげられる「学生闘争」、そのうちの「大学闘争」を2日間分けて取り上げるが、その1日目に1968年の前半までに起こった大学闘争を中心に取り上げる。

<慶大闘争>

1965年1月20日に次年度の新入生から学費を値上げすることが決まった。その値上げ額だが、初年度納入費が約3倍になるほどだったという。しかも大学側が一方的に決定したため、それに反発し学生の一部で闘争が起こった。しかし後述の早大や中大とは反対的に自治会自体が保守的であったため、過激な闘争になることはほとんど無く、徐々に規模を広げていった結果、2万人いた全学生のうちの半分ほどしかいなかった。

早大闘争

高崎経済大学の闘争から僅か3ヵ月後の12月に慶大と同じように学費の値上げにより、その反対運動が盛り上がったことにより「大学闘争」に突入した。

その大きな理由としては理系の拡充により大学の規模を広げるための値上げだったという。
しかも期間であるが慶大は1ヵ月も満たなかった一方で、早大は約150日もわたる長期的なものとなり、「大学紛争史上最大」とまで言われた。その値上げにより第一法学部を皮切りに様々な学部で授業のストライキや座り込み・殴り込みが起こった。2~3月の入学試験には機動隊が駐留するほどの騒ぎとなった。

その中でストライキや闘争の中心に経っていた共闘会議のメンバーが次々と逮捕していき、さらには「共闘会議」のメンバーが次々と逮捕され弱体化して行き、翌年の1966年の6月に「一端」収束された。

「一端」と言ったのには理由があり、その後1969年4月に大学本部と学生会館を占拠し、闘争が再燃。こちらも前述と同じくらいの期間続き、3年後にも再び闘争が再燃、今度学生運動に参加した経験はあるものの特定のセクトにも所属していなかった学生一人が「革マル派」により虐殺される事件にまで発展した(「川口大三郎事件」)。

こちらも収束されるが、1966年の闘争以後、早大は「革マル派」の巣窟になり、その状況が1994年に当時の学長が排除を表明するまで続いた。

<横浜国大闘争>

早大闘争が行われた同時期に学部名の変更が発端となり学生闘争が勃発した。しかし慶大や早大とは違い「大学自主管理」の名の下に行われていたという。いわゆる「セクト」らによる抗議や交渉はなく、むしろ学生と大学側の交渉や抗議といったものが中心であったため、その名が通った。

<中大闘争>

中央大学では1967年11月に起こった。この理由も慶大・早大と同じように授業料の値上げだった。
しかしこの「値上げ」を決めたのは「大学側」ではなく、「大学総長」自身の独断で決められていたため、学生側の不満だけではなく、元々ワンマン体制だった「大学側」にも不満があった(「大学側」も当然値上げは知らされておらず、表明して初めて知った)。

この学生闘争の結果、総長はこの値上げを白紙撤回した。事実上の学生闘争勝利という結果となった。

以上4大学の闘争について取り上げたが、その背景には大学側の授業料値上げがある。「高度経済成長」に伴い経済的にも裕福になり始めた理由もあれば、大学側の経営が困窮を極めたということも考えられる(あくまで推測であるが)。また大学への進学率も戦後急速に伸ばし、苛烈な受験戦争を乗り越えた空虚感、そして高校まで感じていたものとかけ離れたもう一つの「現実」、そして大学側の学生受け入れを広げる、もしくは設備充実を図るための「犠牲のより所」それを現在・未来の学生に与えるしか無かったという風潮が、学生たちにとって「たまったものではない」と言える。

そして学生闘争はさらに過激なものになっていった。

(4日目に続く)