戦う動物園―旭山動物園と到津の森公園の物語

旭川市にある「旭山動物園」、福岡県北九州市にある「到津の森公園」の共通点は絶望的な危機となった状態から見事に変貌を遂げたことにある。かたや試行錯誤の末「行動展示」を行うことによって「日本一の月間入園者数」を記録し、かたや地域の力でもって閉園から復活させた。本書はこの2つの動物園の復活へのエピソードと両園長の交流について書かれている。中公新書は学術的なものが多く読みにくいものが多いが、良い意味で「中公新書らしくない」一冊、つまり読みやすい一冊である。

1.「旭山動物園の衝撃」
旭山動物園と言えば旭川市の観光名所の一つとして有名であり、中でも「行動展示」が人気である。私も旭山動物園には何度か言ったことがあるが、入場者数が急激に伸びた最近は行かない。神奈川在住であるため、旭川に帰るとなるとそう簡単にはいかない。
それは置いといて、「行動展示」と言えばホッキョクグマやオランウータンなどある。旭山動物園は1994年にエキノコックス症により途中閉園に遭い、その後も減少も続けたが著者の一人で同動物園の園長である小菅正夫が動物の行動を見ながら「動物が自然に行動している姿」をそのまま見せることを考え、行動展示を次々と完成した。その魅力というのは「可愛い」のではなく「すごい」ところにある。章題が旭山動物園なので全部言いたいところだが本書のタイトルに「到津の森公園」も書いておく必要がある。「到津(いとうづ)の森公園」は福岡賢北九州市にある市営の動物園である。1998年までは西武鉄道が運営していたのだが「平成の大不況」の余波により閉園。2002年に北九州市が経営を引き継いで再び開園した。ここでは市民ボランティアによって清掃などの活動が行われており、動物の展示方法も「ふれあい」を行う工夫がなされている。さらに林間学園は戦前からずっと続けられているほどである。

2.「どん底」
どん底となったのはちょうど「失われた十年」の時代である。
旭山動物園は1994年にエキノコックスによって途中閉園し、96年には最低観客数を記録した(しかし97年以降はずっと右肩上がりである)。一方の到津の森公園も前述のように98年に閉園し4年間もの空白を作ってしまった。動物園の話とそれてしまうがバブル景気などの大幅な経済成長により公共施設や娯楽施設を軒並み立ててきたつけがたたったという考えがある。だが動物園や博物館といった施設というのは閉園することはほとんどないだろうというのが私の考えではあるが、関心が薄れたもしくは他の所に興味が行きそれどころではなくなったせいかそう言う施設も閉園が相次いでいる。さらにはインターネットにより行動を見ることができるため今後博物館や動物園がバーチャルの環境に淘汰されるのではないかという危惧さえある。

3.「逆転」
旭山動物園も到津の森公園も市が運営している。当然、市の予算を動かしているわけである。旭山動物園では市長をはじめ、市議会議員を説得するために東奔再走した。北九州市では閉園発表後すぐに存続のため、署名運動を行った。どちらも存続がかなったのであるからいい例である。それでもかなわなかったところも数知れずである。

4.「これからの子どもたちへ――動物園から」
まず小菅が岩野と会い、到津の森公園を訪問するために北九州市に渡った。その時のやり取りなどについて取り上げられているが、お互い似ている境遇からか掛け合いが上手いと思った。さてこの章では私自身驚く文言があった。

「そう言えば、旭川は明治維新後に「北の都」とされようとした歴史がある。」(p.197より)

最近旭川の中心部では再開発事業がおこなわれており、その開発地区が「北彩都あさひかわ」という愛称が付けられているが、この「北彩都」というのがここからあるのかもしれない。さらに明治維新後であるが、旭川市が誕生したのは1890年であるが、なぜ「北の都」にされようとしたのかについては、私の知る限りではそう言ったことは出てきていない。

旭山動物園と到津の森公園の復活を見るのと同時に動物園の在り方について両園長の視点から書かれていた。前述のようにバーチャルが淘汰される今、リアルで動物に触れる大切さというのはもっともっと重要なものになる。そのとき両動物園の重要性というのはますます強くなるだろう。