「分かりやすさ」の罠―アイロニカルな批評宣言

「分かりやすい」

人はこういったものを好む傾向があるのかもしれない。特に文章は読み手の側に立って「分かりやすい文章」というのが重要であるといわれている。

ビジネスにおいて「わかりやすい」というのは相手にとってもメリット・リスクや論点が明確になる上では良いことかもしれない。

しかし「分かりやすい」というのは本当にいいことなのだろうかということをよく考える。「簡単にわかる」という点であればこれほど便利なことはないと思うのだが、逆に考えなくなる、言わば「思考停止」に陥るのではないのかという疑問も生じる。

文章に限らず様々なところで「分かりやすい」ということがあるのだが、本書はその「分かりやすさ」の蔓延に警鐘を鳴らしている一冊である。

第一章「「二項対立」とは何か?」
「善」と「悪」
「右翼」と「左翼」
「与党」と「野党」
メディアではこういった「二項対立」を用いて簡単にしてしまうということがほとんどである。二項対立こと「思考停止」に陥らせることもあるとは著者の本にもいくつか書かれている。
そのこともあってか、こういった「二項対立」を「悪」と捉える論客も出てきており、「私は右翼でも左翼でもない。」というような主張をしきりに繰り返すという人もいるという。著者は「全てが全て二項対立が悪ではない」ということを指摘している。考えようによって「二項対立」というのが必要になる時も出てくるという。
二項対立、簡単にいえば「どっちかしかない」というようなものであるが、なるべくならばそういったクローズドなものは避けたいのは分かるが、どうしてもそういう状況にならざるを得ないというときもある。二項対立を完全になくすというのは難しい。

第二章「哲学に潜む「二項対立」の罠」
哲学にもこういった「二項対立」が潜んでいるという。本章ではそれは何かということを言う前に哲学史から、どのような「二項対立」があったのか、「二項対立」から脱するにはどのようにしたらいいのかの研究まで書かれている。「哲学史」と言ってしまったら本章の話はおしまいになってしまうのだが、とりわけヘーゲル弁証法、そしてマルクス主義と言ったものが多くみられた。
ヘーゲルの「弁証法」とは、ある命題に対して、それは矛盾している、もしくは否定する命題、そしてそれらを合わせた命題ン3つには矛盾が含まれており、対立しているが、その対立は互いに結び付かれているという議論である。
一方のマルクス主義もまた「弁証法」であるが、こちらは物質を中心とした「唯物論」を合わせた「唯物弁証法」というのを提唱しており、のちの「階級闘争(格差の間に生じる闘争)」の礎となり、さらに「共産主義」とさせた。

第三章「ドイツ・ロマン派の批評理論」
「ロマン派」と言うと私は中・高・大と音楽漬けだったせいか「音楽」の区分についてのことを思い出すが、実際は政治や文学、思想、美術、建築に至るまで幅広く用いられている。

第四章「「アイロニー」をめぐるアイロニー」
アイロニー」の本来の言い方は「イロニー」と言い「皮肉」というのを意味している。ソクラテスの問答法を「エイロネイア」と言うがこれが語源の一つとなっているようだ。
本書では「反アイロニー」をマルクスやエンゲルスと言った唯物論・共産主義と言ったものについて書かれているが、ソクラテスが出ているということあって、プロタゴラスをはじめとした「ソフィスト」も入るのではとも考えられる。偏見ではあるが「相対主義者」というレッテルが貼られており「善・悪」と言うような論考をする一方で自ら理論武装をして「詭弁」と言うのを作り上げた。

「二項対立」というのは単純に選択をするということなので簡単である。その反面それしか選べないという言わば「究極の選択」にも「思考停止」という観点では似ているのかもしれない。「どっちが」と言うよりも「なぜ」や「何が」というようなオープンな質問や論考が思考能力を磨く手段の一つと言える。