華より花

江戸における歓楽地の一つとして賑わっていた所には「吉原」という所があった。そこで遊郭が立ち並んでおり、女性による接待でもって武士や商人が愉しむ場としていた。しかしこの「吉原」は1966年に無くなったのだが、現在では日本最大のソープランド街として有名であることを考えると、「吉原」の名残は今も残っていると言っても良い。

ちなみにこの「吉原」は山手線では「鶯谷駅」、地下鉄では「入船駅」「三の輪駅」が最も近い。

さて本書で取り上げるのは「最後の吉原芸者」と言われるみな子の人生と無くなるまでの吉原についてである。それと同時に吉原のあった江戸・東京と今の東京の違いについても語られている。

一章「花の吉原仲ノ町」
みな子は北海道に生まれたが、7歳の時に東京に移り、芸者としての修行が始まった。東京に移ったものの、困窮により子供も奉公に行く時代であった。今となっては想像できないことであるのだが、当時はそれが当たり前であり、そのことにより十分な読み書きそろばんができなかった子供が多かった。みな子は7歳のころから吉原芸者として厳しい修行が続いた。その内容については次章に詳しく述べることとするが、今のようなソープランドのような下の世話のことを言っているのかと思いがちかもしれないが、実際はお座敷などで客に満足させるために芸を磨くことを言っている。

二章「張りと意気地の吉原」
みな子が一人前(吉原芸者ではこれを「一本」と呼んでいる)になってから「仲ノ町芸者」と呼ばれるようになった所までを綴っている。当然一人前から吉原では修行は続いた。吉原芸者の修行は多岐にわたっており、「舞踊」「唄(長唄や端唄など)」「和歌」「鼓」などが挙げられる。
みな子が一人前になり、有名になった時には昭和に入った時、ちょうど第二次世界大戦が始まる数年前であった。その時には「歌舞音曲」が禁止され、芸者にとって何もできなくなってしまった。後に大東亜戦争となり、激化、そして敗戦の時を迎える。

三章「吉原は夢のまた夢」
敗戦後の吉原は大きく変化をした。焼け野原からの復興した時にはすでに「赤線」が国策として出され、それを実行した地がこの吉原であった。かつては遊郭もさることながら「文化の発信地」と言われた所であったが、もうその面影はなくなっていた。間もなく1966年に「吉原」という地名が廃止され、現在では「東京都台東区千束四丁目(一部三丁目も入る)」となった。現在でも「お座敷」というと料亭という形であり、吉原の名残として落語や歌舞伎の形として残っている。そして吉原の芸者魂もみな子が後世に伝えんと日々邁進している。

みな子氏は現在89歳であるが、現在でも定期的にお座敷を開き、吉原の古き良き芸を披露している。私たちが忘れていたかつての「吉原」を残そうとしている。「吉原」を後世に知ってもらうため、そして「吉原の芸」を伸ばして行くために、日々邁進しているみな子氏の姿が、ここにあった。