平成人(フラット・アダルト)

本書は「平成生まれの人」を呼んでいるのだろうか、平成の時代から「社会人になった人」なのだろうかと考えさえする。しかし、本書の言う「平成人」はそうではな第一章のタイトルにもある「ヒラのせいじん」と呼び、「平」坦な仕事をこなす毎日を過ごし、メールやネットといった平らな人間関係を構築する人を指している。もっぱらその傾向にあるのは平成の時代に活躍をしている私たちの世代を中心としているため、最初にいったことは強ち間違いではないかもしれない。本書はなぜ「平成人」が誕生したのだろうか、そして「平成人」はどこへ向かうのかを追っている。

第一章「「平成人(ヒラのせいじん)」の時代」
「平成人」という人たちが誕生した時代は90年代の前半に入ってからのことである。ちょうどそのころバブルが弾け
「失われた10年(ないし15年)」や「1ドル79円」もの超円高時代であった。さらにたてば金融危機、金融ビッグバンと続き、長きに渡りにほんの経済・社会を支えてきた「年功序列」「終身雇用」に陰りが見えてきた。その中で大規模なリストラが起き、「一生働ける保証」がなくなり、さらには共同体意識も薄れてきた。その中で「傷つきたくない」「自分らしくいたい」という考えから「平成人」が現れ出したのではないかと考える。

第二章「「平成人」の由来」
では、そもそも「平成人」はどこから来ているのかという話になる。「「平」成人」とも「「平成」人」とも読めるが果たしてどのような由来があったのだろうか。それは高度経済成長期と体育会系にヒントが存在する。それに共通して言えるのが「階級意識」の高さにある。それのアンチテーゼとして、最初に言った疑問の前者「「平」成人」、つまり「平(フラット)」な人間関係をもちたいと願ったのである。それを可能にさせたもの、そう、インターネットである。ブログやSNSを使用し、会社、世代、階級など全ての段差を除去し、見えない、名前もわからないながら「人間」と「人間」とのコミュニケーションを成立させた。

第三章「「平成人」の価値」
ここでは「平成人」の在り方から少し視点を変えて平成時代におけるプロレス、とりわけNOAHの事についてが中心だった。本書で最も取り上げられていたのは三沢光晴。昨年プロレスの試合において無くなった方である。私も大学生の頃はプロレス中継に夢中であり、とりわけNOAHと新日本プロレスのファンであった。NOAHは小橋建太、新日は現在退団し、フリーの身となった蝶野正洋が私の中で代表的であった。NOAHを中心に取り上げているので著者はNOAHのファンじゃないかと思ってしまうがどうだろうか。

第四章「「平成人」の未来」
そもそもフラットな関係といったものはどこから来たのかというと著者はアメリカから来たのではないかとみている。確かにあるのかもしれないが、アメリカは現在の日本以上に格差意識、差別意識が高い。誤解のないように言っておくがここで言う「差別」や「格差」は「貧富の差」というのである。吸う乳や資産が潤沢にあればある程階級意識が強く、さらに収入も少なく、明日生きていくのもやっとの人に成り上がるとしたら最低でも二代かかるともいわれている。フラットはアメリカからきているものであるが、大部分は日本でつくられたといっても過言ではない。
しかしアメリカからは更なるものが入ってきた。「格差」を正当化した新自由主義である。「失われた10年」を脱した後、「戦後最長の好景気」がやってきたが、同時に「格差問題」も顕在化した。ちょうど小泉政権の真っ只中であり、様々な改革を遂げてきた。しかしそのほとんどがアメリカから来たものであり、ブッシュ・アメリカが掲げた新自由主義と遜色ないものであった。フラットな関係とはいえど、収入などのものでは決して「平(フラット)」ともいえず、かりにあったとしても低いところでの「平(フラット)」であった。

ある種インパクトの強いタイトルに惹かれたが、よくよく読んでみると私たちの世代の現在を投影しているような気がした。それでいながら、著者の趣味を垣間見ることができるという、一粒で二度おいしい(?)ような一冊に思えてならなかった。

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