志ん生の昭和

落語界において「昭和の大名人」と呼ばれる人物は2人いる。一人は八代目桂文楽、そしてもう一人は本書で紹介する五代目古今亭志ん生である。両者とも芸の流儀が政局胆であり、文楽は全くといってもいいほど几帳面で、一字一句完璧に仕上げており、志ん生は江戸の言葉でいうと「ぞろっぺいな」と呼ばれる芸風、天衣無縫や「面白ければいい」というような印象である。しかしこれは売れない時代に苦心の末、磨きあげた芸風であり、緻密な芸はきっちりとしている。詳しい話は第三章で紹介する。

人生そのものが「落語」とも言える志ん生の波瀾万丈な人生と噺の四方山話などを綴ったのが本書である。

第一章「なめぐじ長屋」
志ん生の代名詞といえば数多く存在する。第一章のタイトルである「なめくじ長屋」は貧乏時代の代名詞といえる。
また落語の縁目でも「火焔太鼓」と「替り目」は本人の生きざまそのものを描いているように思える。とりわけ「火焔太鼓」は古典であるが、志ん生が数多くアレンジをしており、現在もそれが主流になっていることからある種「新作」と読んでもおかしくない。
この「なめくじ長屋」に住み始めたのが昭和3年、ちょうど世界恐慌のまっ只中にあった。ただでさえ貧乏をしていたのだが、とうとう家賃や借金も返せなくなり夜逃げしていたところに浅草の業平という所の長屋を借りることができた。しかも家賃はいらないという。これがかの有名な「なめくじ長屋」であるが実体は本章を読むとかなり生々しく描かれている。

第二章「火焔太鼓」
志ん生と正反対の芸風を持つ大名人、八代目桂文楽と志ん生は無二の親友であり、ともに
「孝ちゃん」(もしくは美濃部、志ん生の本名である美濃部孝蔵から)
「並河」(文楽の本名、並河益義から)
と呼び合った仲である。志ん生が貧乏をしていた一方で、文楽は真打ちになるとお座敷を転々とし、かなり稼いでいたという。その文楽の友情あってかつて文楽がいた落語陸会であった。そこから売れ出し始めたきっかけとなり、金原亭馬生、古今亭志ん生と襲名していった。
ようやく売れだしたのが昭和10年代であったが、このときに十八番としてよく知られる「火焔太鼓」を上げていた。しかし現在CDなどで残っているものはいずれも戦後担ってからのことであり、戦前に演じられたものは一つも残っていない。理由は簡単である。当時のSPレコードでは「火焔太鼓」ほど時間のかかる演目は録音しきれなかったからである。

第三章「ああ、満州」
志ん生は慰問のため、ようやく売れ始めた六代目三遊亭円生とともに満州に赴いた。その縁もあって、志ん生と円生は同じ時期に名人への道を突き進んだといってもいい。
最初に志ん生は緻密な芸をするという話をしたが、こういうエピソードである。志ん生が脳溢血で倒れ、奇跡的にカムバックしたときのことである。天衣無縫な芸は鳴りを潜めていた頃、唐茄子家政談を演じていたとき、そばで聞いていた三遊亭鳳楽に円生が「志ん生さんは巧いだろう」と言ったところにある。元々両者とも売れなかった時代が長く続いており、苦労や芸にかける精進も互いに知っていたためと思われる(「CDつきマガジン 隔週刊 落語 昭和の名人 決定版 全26巻(4) 六代目 三遊亭圓生(壱)」より)。

第四章「お直し」
志ん生は「賞」には興味がなかった。そこで賞に関わる会である、芸術祭に参加したときに、その場にふさわしくない噺をしようと画策したのである。画策した結果取り上げたのが「お直し」である。「お直し」は廓噺であり戦時中では「禁演落語」に選ばれたほどである。それを演じて志ん生h文部大臣生を受賞してしまった。当人も、
「女郎買いの噺に賞をくれるとは、大臣も粋なものだねえ(p.143より)」
と驚いたという。
そして脳溢血で倒れた後、いくつか高座に上がるが、体調が優れず引退同然となった。文楽が亡くなる10日前には2人でウィスキーを呑み交わし、いつか二人会をやろうと約束をしたという。現世の世界では、その夢は叶わなかったが、極楽浄土ではきっとその夢を叶えたのかもしれない。

落語鑑賞を趣味の一つとしている私であるが、志ん生の生きざまについては様々な文献を見ているためいくつかは知っている。しかし、本書は「貧乏だった」としかなかった志ん生の戦前が非常に詳しくかかれており、なかなか面白かった。

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