植木等伝「わかっちゃいるけど、やめられない!」

「わかっちゃいるけど、やめられない」

これは植木等、ひいてはクレージー・キャッツのヒット曲の一つと言われている「スーダラ節」の一節である。
私は元々お笑いが大好きであったため、植木等については若干わかるが、植木等全盛期にできた「シャボン玉ホリデー」は余りよくわからない。父からそれを見ろと言われているがDVDがないせいか叶えられないでいる(今度実家に帰ったらビデオがあるか訊いてみよう)。
私事はさておき、本書は「真面目に「無責任」を演じた男」の一生を描いている。

第一章「めんどうみたョ(昭和元年〜昭和二〇年)」
植木等はお寺の次男として生まれた。
父が親鸞に影響を受け、住職となり、自らも仏僧としての修行を行った経験がある。父の影響と修行のせいか生真面目な性格の土壌ができた。
植木のヒット曲と言われている「スーダラ節」は渡辺プロダクションの創業者である渡辺晋や、クレイジー・キャッツのリーダーであるハナ肇にも歌うよう強く言われた。思い悩んだ植木は父に報告し、その曲を披露すると、意外なことにヒットすると言われたそうである。
「わかっちゃいるけどやめられない」
これは親鸞が死の間際に語ったように人間の在り方を一言で表したものであるという。小市民のような言葉かもしれないがこれだけ深さがあるとは自分でも思ったことがなかった。

第二章「だまって俺について来い(昭和二〇年〜昭和三二年)」
大東亜戦争、第二次世界大戦終結後、日本は暗いどん底に月落とされた。植木はそれを目の当たりにしながらも人を楽しませたいという一心で両親の反対を押し切り芸能界に入った。当時は舞台やドラマで演じられた「ザ・ヒットパレード」よろしく、芸能界が華やかなものになる以前の話であった。植木はバンドボーイをやりながらも後にハナ肇らと出会い、結婚、そして子供の誕生と枚挙に暇がないほどであった。当時はジャズブームといわれ、所々でジャズのコンサートが開かれた。戦前にもそういったブームはあったのだが、日米関係が悪化したことにより、取り締まりの対象となった。隠しながら所持をするものもいたが、自由にジャズが聞いたり、演奏したりすることができない日々が続いたため、その反動からブームとなったのかもしれない。

第三章「コツコツやる奴ぁ、ご苦労さん(昭和三二年〜昭和三八年)」
昭和32年にハナ肇率いるクレイジー・キャッツに参加したことにより、スター街道への道が拓かれた。ハナ肇や植木等のみならず、谷啓もメンバーの一人であり、「ガチョーン」のギャグもここで誕生した。バンドだけではなく、コミカルなコントもここで誕生した。「シャボン玉ホリデー」はクレイジー・キャッツの代表番組と言える。映画でも「ニッポン無責任時代」が誕生し「植木等=無責任男」という構図ができあがった。
後にその路線は「ザ・ドリフターズ」に受け継がれていった。

第四章「そのうちなんとかな〜るだろう(昭和三八年〜平成一九年)」
シャボン玉ホリデーが終了するとブームはクレイジー・キャッツから後輩のドリフターズにシフトしていった。植木は喜劇俳優から舞台俳優、さらには映画俳優の仕事が増えていった。度重なる病気や友・先輩の死を乗り越え、喜劇俳優としてではなく、一人の「植木等」が作られていった。中でももっとも悲しみの淵に立たされたのが先輩であり、喜劇人として道を拓いてくれた恩師、ハナ肇の死であった。それをも乗り越え、喜劇人として人生を歩んでいったのだが、今から3年前の2007年3月、呼吸不全で息を引き取った。
最後にかつてお化け番組と言われた「8時だョ!全員集合」でゲストとして出たときのコントが収録されている動画を掲載しようと思う。加藤茶と言えば禿ヅラにちょび髭というスタイルであるが、それを植木等が真似たというコントである。植木等の面白さが凝縮したようなコントと言える。

真面目に「無責任」を演じた男の姿がそこにはあった。