「弱肉強食」は動物が生きていくにあたり、自然至極であり、かつ見えない「原理」である。では、その「弱肉強食」の原理はいつ頃から、そしてどのようにして生まれたのだろうか。
本書はその「弱肉強食」について生物学的な原理と人間、ひいては国家レベルでの「弱肉強食」の原理について解き明かしている。
第一章「生物の行動を決めるもの」
生物学における「弱肉強食」は「食物連鎖」によって成り立っている。いわゆる「食う」か「食われる」かの世界である。その世界の中での環境に応じた生活によって「生き残る」ことができる、いわゆる「適者生存」があるのも動物の世界としてある。
では人間はどうか。人間は動物にはない「理性」や「社会規範」というのが成り立っているため、「食物連鎖」や「適者生存」というものがないようにも見える。しかし人間にも人間の「弱肉強食」が存在する。それについては第五章以降の話となるため、ここでは割愛する。
第二章「弱い動物は一方的に食われているか」
「弱肉強食」と呼ばれる生物の世界であるが、はたして「弱者」は一方的に食われるのだろうか、という疑問を呈したのが本章である。
「弱者」も「強者」から逃れるための術や特徴を持っている。
たとえばタコやイカの場合は「墨」をかけて逃げる、などが挙げられる。
第三章「強いものだけが繁栄するか」
では「強者」はずっと反映し続けられるのか、というとそうではない。約8000万年前に絶対的強者であった恐竜が隕石の落下に伴った環境変化についていけず絶滅した。
それだけではない、弱者が束になれば「窮鼠猫を噛む」が如く、立場が逆転することもある。
第四章「弱肉強食の種々相」
「弱肉強食」そのものを見ていくだけでも奥が深い。その奥が深い理由の一つに本章では「同種間での弱肉強食」が挙げられる。餌を巡って強いライオンが弱いライオンを殺すというようなことがあるのだという。本章では「ライオンの子殺し」がそれに当たる。
また「共食い」も同類における「弱肉強食」にあたり、それについても本章で考察を行っている(もちろん人間における「カニバリズム」についても考察を行っている)。
第五章「進化の果てヒトは現代人にたどりついた」
さて人間における「弱肉強食」についてである。
人間も元々はサルやオランウータンなどから進化し、人間になった。当初は道具などを使って狩猟をしていたが、時代が経つにつれ自ら農耕などを行い、自ら食物を生産し、消費する生物にまでなった。
第六章「人間のなかの弱肉強食性」
人間は農耕を始めたあたりから、生物における「弱肉強食」の原理からはずれるようになった。さらには様々な動物を育てるいわゆる「家畜」などを育てることにも成功させた。そして人間が自分自身「飼い慣らす」ようになり「社会」という檻がつくられた。そのことから自然の「弱肉強食」ではない、社会における「弱肉強食」が新たに出てきた。
第七章「岐路に立つ現代人」
社会における「弱肉強食」とはいったい何か。喩えはいくつもあるが、「負け組」や「格差社会」というのがある。これらは社会における「弱肉強食」の勝者と敗者を分けることができる。あともう一つ悪い喩えでいうと「いじめ」も、社会における「弱肉強食」の一つである。
「弱肉強食」は元々生物的なところで使われるのだが、いつしか私たちの生活のなかでも「弱肉強食」が使われている。しかし前者と後者とで意味が全く違っている。前者は文字通り「食う」か「食われるか」の世界、後者は社会的に「勝つ」か「負ける」かで使われており、ある種「俗用」とも見て取れる。本書は「弱肉強食」を生物学、哲学、社会学など学問の垣根を越えて考察を行っているため、非常に興味深い一冊であった。
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