日本の出版物を海外に届ける仕事。
出版物を届けることに日本は何の役割を持っているのだろうか。本書はその出版エージェントを日本で初めて勤め、そして約40年にわたってその役割を担い続けた女性の半生を本書では描いている。
1.「商社から出版界に」
著者ははじめから出版界にいた人間ではない。当初は日本の商社に勤めていたのだが、その仕事に悩んだとき、マックス・ウェーバーの本でアメリカの出版社に興味を持ちはじめた。
2.「アメリカの出版社訪問」
アメリカの出版社である「タイム社」に入社したのは1963年。それからアメリカ中の出版社を訪問しながら「出版エージェント」という仕事を初めて目の当たりにした瞬間でもあった。
3.「ボローニャ国際児童図書展」
アメリカを離れイタリアへ。イタリアのボローニャにて、本章のタイトルにある図書展に足を運んだ。その図書展が後の「作家エージェント」、そして「著作権輸出」に関しての大きな指針の一つとなった。
4.「作家のエージェント」
「作家エージェント」という職業は最近ではよく聞くが、ボローニャの図書展に足を運んだ70年代の時はあまり聞きなれない職業であった。「作家エージェント」とは何なのか、簡単に言うと自らの著作を出版社に売り込む人たちのことを言うが、作家自身が出版社に売り込むエージェント的な役割を担うこともある。
5.「ブッククラブ」
「ブッククラブ」というと、私は「読書会」を連想してしまうが、本章ではそうではなく、国内外の著作を流通する組織のことを総称している。4章と同じく70年代にはそのような組織は存在せず、アメリカにあるブッククラブを介して日本の著作物を輸出した。
6.「日本から文芸書を提出する」
契約に関する話をこぎ着けた後、いよいよ日本の文芸書の翻訳権などを輸出するのだが、その中で交渉をしてきた作家とのエピソードの中で、とりわけ珠玉なものを綴っている。
7.「栗田・板東事務所の船出」
今となっては外国の書籍が翻訳されて輸入されることもあれば、日本の著作が外国に翻訳されて輸出されることもある。しかし本章のタイトルにある事務所が設立される1981年以前は輸入はあれど、輸出は少なかった。その現実を憂いた著者は自ら著作権輸出を中心とした事務所を設立した。
8.「日本著作権輸出センター発足」
しかしその事務所も軌道に乗った訳ではなく、むしろ泥船に乗ったような状態が続いていた状態であった。そしてまた出版社や銀行へと奔走を重ね、「日本著作権輸出センター」を発足させた。日本の著作権を輸出させることを目的としていた。
9.「日本文化をいかに伝えるか」
日本の文化、とりわけ出版物は日本人ならではの表現や描写がある。それを翻訳を介して輸出することによって海外に日本の文化を伝えたい、という使命を著者、ひいては「日本著作権輸出センター」は持っている。
私は「著作権」というと「守る」「保護する」というイメージでしかなかった。本書は「著作権」そのものの法律ではなく、むしろ日本で生まれた著作物を海を越え様々な人に読まれること、そしてそれが日本の文化への理解につながることを伝える一冊である。今となっては著作の輸出入は多いのだが、それがいかに始まり、続いていったのかがよくわかる。
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