シリーズ「『貞観政要』を読む」~3.巻二<任賢><求諫><納諫>~

<任賢第三>

第二巻の最初は「任賢」ですが、ここでは君主に使え、諫言を行った臣下たちを詳しく紹介しております。

1.房玄齡

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房玄齡,齊州臨溜人也。初仕隋,為隰城尉。坐事,除名徙上郡。太宗徇地渭北,玄齡杖策謁於軍門,太宗一見,便如舊識,署渭北道行軍記室參軍。玄齡既遇知己,遂警竭心力。是時,賊寇毎平,衆人競求金寶,玄齡獨先收人物,致之幕府,及有謀臣猛將,與之潛相申結,各致死力。累授秦王府記室,兼陜東道大行臺考功郎中。玄齡在秦府十餘年,恒典管記。
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一人目は房玄齡(ぼうげんれい)という人物です。房玄齡は斉州の臨海県(現在の山東省)の出身であり、幼くして博学であり、足が速かったと言われています。太宗とは初めてあったときから親密であり、太宗が皇帝に就いたとき、臣下になりました。

2.杜如晦

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杜如晦,京兆萬年人也。武徳初,為秦王府兵曹參軍,俄遷陜州總管府長史。時府中多英俊,被外遷者衆,太宗患之。記室房玄齡曰:「府僚去者雖多,蓋不足惜。杜如晦聰明識達,王佐才也。若大王守藩端拱,無所用之;必欲經營四方,非此人莫可。」太宗自此彌加禮重,寄以心腹,遂奏為府屬,常參謀帷幄。時軍國多事,剖斷如流,深為時輩所服。
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杜如晦(とじょばい)は京兆(現在の陝西省)の出身であり、王佐の才(帝王の補佐として才能のある人)と言われたそうです。その大きな要因としては「見識の広さと深さ」があったと言います。
杜如晦もそうですが房玄齡も良家の出身でした。

3.魏徴

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魏徴,鉅鹿人也,近徙家相州之臨黄。武徳末,為太子洗馬。見太宗與隱太子陰相傾奪,毎勸建成早為之謀。太宗既誅隱太子,召徴責之曰:「汝離間我兄弟,何也」衆皆為之危懼。徴慷慨自若,從容對曰:「皇太子若從臣言,必無今日之禍。」太宗為之斂容,厚加禮異,擢拜諫議大夫。數引之臥内,訪以政術。徴雅有經國之才,性又抗直,無所屈撓。太宗毎與之言,未嘗不悅。徴亦喜逢知己之主,竭其力用。又勞之曰:「卿所諫前後二百餘事,皆稱朕意,非卿忠誠奉國,何能若是」三年,累遷秘書監,參預朝政,深謀遠算,多所弘益。
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太宗がもっとも信頼した臣下である魏徴(ぎちょう)は幼い頃に孤児となるほど名門とはかけ離れた人だった。しかし勉学への努力は一途で剛直な性格だった。初めてあったときは太宗と隠太子とで政権争いのまっただ中にいたのだが、身分の差を乗り越え、太宗に諫言したことが始まりだったという。封建社会と呼ばれた中ではまさに自ら死にに行くような公意でしたが、太宗はその意見を受け入れ、諫言大夫というきわめて身分の高い臣下に抜擢されました。
また太宗の信頼も篤く、皇帝の自室に招き、政治談義をする事もあったと言います。

4.王珪

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王珪,太原祁縣人也,武徳中,為隱太子中允,甚為建成所禮。後以連其陰謀事,流於スイ(崔かんむりに高あし)州。建成誅後,太宗即位,召拜諫議大夫。毎推誠盡節,
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王珪(おうけい)は当初、太宗と敵対した隠太子の臣下にいたのですが、その後太宗の臣下に入ったという異色の経歴を持っています。魏徴と同じく諫言大夫でしたが、魏徴ほど剛直ではなく、房玄齡や杜如晦ほど名家でもなく、見識も深くありませんでしたが、そのバランスの良さがかえって太宗の信頼を篤くしたと言えます。

<求諫第四>

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太宗威容儼肅,百僚進見者,皆失其舉措。太宗知其若此,毎見人奏事,必假顏色,冀聞諫諍,知政教得失。貞觀初,嘗謂公卿曰:「人欲自照,必須明鏡;主欲知過,必藉忠臣。主若自賢,臣不匡正,欲不危敗,豈可得乎。故君失其國,臣亦不能獨全其家。至於隋煬帝暴虐,臣下鉗口,卒令不聞其過,遂至滅亡,虞世基等,尋亦誅死。前事不遠,公等毎看事有不利於人,必須極言規諫。」
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皇帝の風格と言えるのでしょうか。厳粛であり威厳のある雰囲気を持っていたため臣下たちは皇帝の顔色を窺いつつどぎまぎとしながら発言するような感触となってしまいます。
そのことを察知してか皇帝は自ら意見を受け入れられるよう、自らの顔色を和らげて、臣下が諫言できるようにしたそうです。

諫言を受けることも上に立つものとして重要なことですが、それが言える環境をつくるのもまた上に立つものとして重要なものの一つです。

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諫議大夫王珪對曰:「臣聞木從繩則正,後從諫則聖。是故古者聖主必有爭臣七人,言而不用,則相繼以死。陛下開聖慮,納芻蕘,愚臣處不諱之朝,實願尽其狂瞽。」太宗稱善,詔令自是宰相入内平章國計,必使諫官隨入,預聞政事。有所開説。
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曲がった木でも縄に従って切ると、真っ直ぐとした木となる。君主やリーダーと呼ばれる人も同じように「諫言」を受け入れてそれに従えば、民も受け入れられる君子(聖人君子)となれると言います。

優れたリーダーも必要ですが、「賢臣」と呼ばれるような見識も優れ、リーダーを正しい方向に導けるよう諫言できる部下も必要ですが、その両方が巡り会える例はきわめて少ないのが現実です。

そういう意味で「貞観政要」はリーダーのための本でもありますが、部下に対しても「賢臣」となるためにどうあるべきか、という意味で役に立ちます。

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貞觀十六年,太宗謂房玄齡等曰:「自知者明,信為難矣。如屬文之士,伎巧之徒,皆自謂己長,他人不及。若名工文匠,商略詆訶,蕪詞拙跡,於是乃見。由是言之,人君須得匡諫之臣,舉其愆過。一日萬機,一人聽斷,雖復憂勞,安能盡善。常念魏徴隨事諫正,多中朕失,如明鏡鑒形,美惡必見。」因舉觴賜玄齡等數人以之。
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魏徴を褒め称える場面ですが、なぜ魏徴が褒め称えられるのか。それは、
・自分を知っていること
・君主の過失をことある毎に諫めることができる
ことにあると言います。

「自分を知る」ことはむずかしいのですが、優れていても自分の悪いところを知り、それを正し続けること、その「悪いところ」を指摘できる人を持つことはリーダーであっても、職人であっても、自分を映し出す「鏡」を持つのと同じことです。

<納諫第五>

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貞觀四年,詔發卒修洛陽之乾元殿以備巡狩。給事中張玄素上書諫曰:微臣竊思秦始皇之為君也,藉周室之餘,因六國之盛,將貽之萬葉,及其子而亡,諒由逞嗜奔欲,逆天害人者也。是知天下不可以力勝,神祇不可以親恃。惟當弘儉約,薄賦斂,慎終始,可以永固。
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王宮の修理をしようとしたが、臣下に諫められました。
修理代は民から納められた税金を使っている事から、課税を減らし、王宮そのものも「倹約」を広めれば民にも伝わり、国家を永らく続くというものです。
「清貧」の思想をこの「諫言」に収められているところです。

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太宗曰:「夫人久相與處,自然染習。自朕禦天下,虚心正直,即有魏徴朝夕進諫,自徴雲亡,劉泊、岑文本、馬周、チョ(衣偏に者)遂良等繼之。皇太子幼在朕膝前,毎見朕心悦諫者,因染以成性,故有今日之諫。」
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魏徴が亡くなっても、その魏徴の下で諫言を行うことの良さを学んだ臣下もいました。亡くなった後も、太宗が国を治め続けられたのも、諫言を続けた魏徴であり、その魏徴は諫言をいう臣下を育て、唐の時代、そして太宗の時代を安泰させることに尽力いたしました。

諫言を言う人も必要ですが、その方は永らくいるわけではありません。
人から人へ、諫言を言う人を受け継いでいくこともまた魏徴のように諫言を言う人の使命でもあります。

(巻三へ続く)

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<参考文献>

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<引用サイト(白文すべて)>

維基文庫、自由的圖書館より「貞観政要」

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