ぼんやりの時間

私は今し方、「ぼんやり」するような時間はない。むしろ忙しくて、休む暇もない、といえるような状態にある。しかし「ぼんやり」をする時間があるからでこそ、心に余裕が生まれ、自分の人生を見直す、さらには、向き合うことができる事ができる。

しかし今の社会は私に限らず、「効率」を求める風潮にあり、それでいながら「狭量」であったり、「神経質」であったりすることがある。ニュースをぼんやりしながら見てみると、「それほどの問題か?」と思ってしまうことが多い。

本書は私、もとい日本人が忘れかけていた「ぼんやり」の重要性とやり方について自らの体験を元に伝授している。

一.「「ぼんやり」礼賛―常識に逆らった人びと」
「ぼんやり」とはいったいどのような事を指しているのだろうか、調べてみると、

「気持ちが集中せず間が抜けていること。また、その人。」「goo辞書」より、名詞部分のみ抜粋

とある。辞書から見ればネガティブなイメージでしかないのだが、そのような時間こそ、余裕のなかった時間を取り戻すことができるという。そういう意味で「ぼんやりは貴い」という。「ぼんやりは貴い」という言葉は哲学者の言葉を用いたものであり、著者はこの言葉に賛同している。ほかにも「ぼんやり」をすることは妄想の旅をすることもでき、自然に溶け込むこともできる。「ぼんやり」する方法はただ何もしない、というわけではなく、散歩をするときでも「ぼんやり」をすることができる。ただし散歩時にぼんやりするときは、周囲に人や車を注意してからやることに限る。そうでもしないとぼんやりして命を落としかねない。

二.「ぼんやりと過ごすために―その時間と空間」
「ぼんやり」をしているときは「時間の無駄」と切り捨てる人もいる。実際に私も同じような意見だった。しかし「一.」の所でも書いたのだが、「無駄な時間」というよりも、「自分を見つめ直すよい機会」という捉え方をする。また「ぼんやり」する所は選ばないように思えるのだが、あえて取り上げるとするならば、「心安らぐ」ような場所でやると、自分の居場所を認識することができ、心に余裕ができる。具体的な場所はいろいろあるのだが、たとえば自然の音しか聞こえないような場所もあれば、温泉でも「ぼんやり」することができる。

三.「「ぼんやり」と響き合う一文字」
「ぼんやり」を漢字一文字にたとえるといったい何なのか、本章では「闇」「独」「閑」「怠」などがあげられる。一人で静かいいながら、怠けるようにしながら、自分自身の闇に向き合う、といったものなのかもしれない。

喧噪としている今の時代だからでこそ「ぼんやり」をする時間は重要である。それは毎日は難しいのであれば、少なくとも月に1回、1時間、スマホやPCなどにまみれた所から離れ、何もない、一人でいられる場所に行って、ボーッとしながら、自分を見つめ直す、あるいは自分の夢を思い描くだけでも心の余裕が生まれてくる。「ぼんやり」は今の時代必要なものである。