イルカを食べちゃダメですか?~科学者の追い込み漁体験記

本書が出版されたのは2010年の7月、ちょうどドキュメンタリー映画「ザ・コーヴ(THE COVE)」が世界で公開されたのだが、国内外で賛否両論の意見が相次いだ。特に日本では伝統漁業をプロパガンダとして扱われていたことに非難をし、逆に賛同する意見としては「イルカ漁の現状について知る事ができる」という意見がある。しかし手法について「隠し撮り」や「盗撮」といったことが使われるなどその面でも批判がある。

本書の出版から約5年経っているが、実を言うと、今もその話題が旬となっている。その理由は「世界動物園水族館協会(WAZA)のイルカ漁及びイルカの水族館展示に関する改善勧告について日本動物園水族館協会(JAZA)が受け入れた」ことにある。このことによりイルカ漁はおろか、水族館でイルカを飼育することすら難しくなり、イルカショーの聞きとまで言われている。

そこで本書である。元々イルカ漁はどのようにして行われているのか、科学者が自ら和歌山県大地町に赴き、イルカ漁と捕鯨について取り上げている。なお著者は1996年~2000年まで水産庁調査員として大地町に滞在したほか、以降も年に1~2回の頻度で大地町へ赴いているという。

1章「イルカ追い込み漁(1) 沖でのこと」
イルカ漁は大地町から最大で35キロまで離れた所から探すところから探すのだという。これは「探鯨(たんげい)」と呼ばれるものだが、探鯨は7隻の船が扇状に展開していきながら行っていくため、あらゆる方角からイルカの群れを探すこととなるという。イルカの群れが見つかったら群れの見つかった船らが誘導していくという。

2章「イルカ追い込み漁(2) 浜でのこと」
追い込んだイルカの群れを畠尻湾に行くように仕向ける。入り江にやってきたらいよいよ捕獲作業である。生け捕りにするケースもあれば捕殺するケースもあるのだが、いずれにせよ捕獲作業は海・陸の共同で行われるのだが一匹ずつ行われるが、イルカは大暴れすることが多く、それにより大怪我してしまうこともあるため「危険な作業」と言われている。
捕殺したイルカは解剖され、調査に使われたり、食されたりするという。

3章「大地発、鯨と人の400年史―古式捕鯨末裔譚」
1章・2章で取り上げられた手法は400年以上に及ぶのだという。しかし現在のように国内外の動物愛護団体や環境テロリストと呼ばれる所から抗議・妨害を受ける事になる。発端は、21世紀に入ってからのことであると言う。

「始まりは2001年。2人組の外国人が大地の港あたりをウロウロするようになった。初めのうちはあまり気にも留めず、追い込み漁師も適当に相手をしていたし、漁協にも出入りして、世間話などをしていたようだ。思い返せばこの頃は偵察だっただろう」(p.88より)

この時はまだ偵察だったのだが、それが妨害行為・抗議へと変化していったのである。しかも手法もだんだんエスカレートし、警察・自治体の協力の下、立入禁止区域にしたのだが、まったく効果が無く、今度は撮影され、海外メディアに流されるという自体になった(もちろん不許可で)。その状況でもまっすぐに対応してきた。もちろん本章にある400年にも及ぶ歴史についても語ったほどである。もちろん400年の歴史の中で手法はさまざまな「変化」をしてきたという。

4章「イルカを飼うのは「かわいそう」か?」
おそらくイルカのことについて現在進行形で起こっているのは本章の部分である。生け捕りにし、各水族館で見世物やショーとして飼うことがあげられるのだが、それについても同じような批判を受けることとなった。最初にも書いたとおり昨日、JAZAがWAZAの改善要求を受け入れ、残留をすることとなり、そのことから水族館からイルカがいなくなるのではないかという意見もあった。本章ではそのことについて議論を行っている。

5章「捕鯨業界のこれから」
日本はイルカに限らず、鯨を捕る「捕鯨」についても槍玉に挙げられている。もっとも有名なものは捕鯨であるのだが、元々捕鯨そのものは歴史と共に翻弄されてきた。始まりは1819年、江戸時代における「ジャパングラウンド」からはじまり、江戸時代末期で最大の出来事となる1853年のペリーの浦賀沖来航から翌年の日米和親条約締結までの流れの発端は「捕鯨」だった。捕鯨については次章にてするが、戦後になって欧米の捕鯨をやらなくなり、むしろ反捕鯨に回るようになった。そこから日本の捕鯨に対する批判が出始め、年々強まっていった。

6章「鯨を食べるということ」
捕鯨文化は日本に限らず、ノルウェー、アメリカ・カナダの先住民族などで行われている。日本も捕鯨文化を持っている一国であるが、日本では捕鯨した鯨は高級食材として食べられるだけでは無く、「鯨墓(げいぼ)」「鯨塚(くじらづか)」、さらには「鯨神社」を建立することで、供養をしたり、感謝をしたりしている。

鯨にしてもイルカにしても共存する文化を日本は長い歴史の中で育んできた紛れのない事実がある。しかしそれを世界中がわかり合えるかというと、文化や価値観の違いからそうには行かないと言うほかない。もっとも文化の破壊を易々と行い、受け入れようとしている所、さらには科学でさえもこんなことがあった。

「アメリカ科学振興協会の2010年年次大会(annual meeting)が、2月にサンディエゴで開催された。ここでイルカの知性について議論された様子が『サイエンス』誌に「イルカってヒトなの?(Is a Dolphin a Person?)」と題して紹介されている。知性があるとする趣旨の議論が趣旨の議論が行われているが、なぜか認知科学者のDianaが追い込み漁の捕殺シーンと思われるビデオを聴衆に見せている。
 これは危険だ。科学ではない。ある動物が賢いことと、それを人が食べることはまったく別問題である」(p.193より)

有名な科学誌が科学では無く感情でもって議論を行っているという。最も科学的な見地にてイルカ・鯨を保護しなければならない理由になっているかどうか疑わしいという他ない。

しかし科学とは裏腹に日本はそういった状況から不利な立場にいることは間違いない。その上で日本はどのようなスタンスを取るべきか、それは自治体にしても政府にしても模索しているのかも知れない。