自然と人間―哲学からのアプローチ

科学や経済の進歩によりモノが豊かになり、生活も便利になった。しかし人間として生きていくにあたり、肝心の「心」が失っているように思えるのは私だけであろうか。科学や工業の発展の反面、森林伐採により自然が失われている。「21世紀は「心」の世紀」であり「「環境」の世紀」だろう。その時にこそこういった哲学のアプローチというのが必要不可欠になる。本書は哲学、特に自然哲学を交えながら自然について、哲学史の感じで人間について解き明かす一冊である

第Ⅰ部「古代ギリシア」
本書は哲学の中から「自然学」についてピックアップしている。哲学というとその祖となったのがタレスである。「万物の根源は水である」と唱えた哲学者でもある。タレスだけではなく「(万物の根源は)火である」「空気である」といった自然からの根源をなす学派の中で最古の「ミレトス学派」の祖でもあった。この自然学もこの「ミレトス学派」から始まっている。これが第1章。
第2章ではソクラテスが出てくる。ソクラテスといえば「エイロネイア(皮肉)」や「無知の知」として有名であるが、「自然哲学批判論者」としての役割を担っていた。それも一つの要因であったがソフィストたちの怒りを買い、死刑に処せられ、亡くなった。

第Ⅱ部「ルネサンスから近代へ」
ここでは14〜17世紀、ちょうどルネサンスが始まった時期である。その時はアリストテレスの哲学が絶対といわれていた。「ガリレイの地動説裁判(ガリレオ裁判)」が有名な話である。その反動もあったかどうかはわからないが哲学に大きな空白ができてしまったようである。ここで最も重視されているのはデカルト、スピノザである。「近代哲学の祖」といわれるデカルト、「汎神論」や「エチカ」による論考で有名なスピノザ、ともに「合理主義哲学者」として知られる。デカルトは数学的、科学的に自然の在り方について論考したため、「自然哲学」と「自然科学」とが分離される結果となった全長であったとされている。

第Ⅲ部「近代――十八、十九世紀」
近代にはいってくるとさらに自然哲学に対する関心の動きが強まった。とりわけ近代において代表的なのがカントであろう。カントと言えば「純粋理性批判」が有名である。自然哲学との関連性は初期にあたり、その時はニュートンが唱えた自然哲学に関心を寄せていたが、やがて懐疑主義に強い衝撃を受け批判哲学論者になったという経緯がある。
そしてもう一人はヘーゲルである。ヘーゲルの哲学は特に難解で知られているため、私でもあまり手を出すことができない。ちなみに彼も自然哲学を論じられているが、主にニュートン批判を論じたあたりからカントと対極をなしている。

第Ⅳ部「現代」
現代といっても数十年前に唱えられた哲学である。サルトルやハイデッガー、フッサールについて取り上げられている。

第Ⅴ部「日本」
日本が自然について意識し始めたのは近代以後、おそらく明治時代あたりからと推測される。それまでは自然というのを意識しなくても、それらへの畏敬の念は無意識の中にあり、共生しながら育んでいった。そのことから「自然」に関して哲学的・合理的に考える必要がなかったと言える。
日本人で「自然哲学」について真っ向から論じたのは和辻哲郎である。「風土」の特徴について考察をするとともに日本における自然の「あり方」について解き明かしている。

「自然哲学」についてスポットをあてた一冊であるが、「哲学史」の色が濃かった感じが否めない。それであったら、哲学史を見たらいいのではないかと考えてしまう。今であったら新書版も発売されており手に届かないほどではない。しかし「自然哲学」を中心とした哲学史というのはこれまで読んだことがなかったためそう言った意味では一読の価値はあった。

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