環境問題の杞憂

今日では環境問題について耳や目にタコができるほど聞く。確かに地球温暖化やそれによる海面水位の上昇、森林の減少など様々なところで実害を追っている私たち。しかし環境問題は企業や個人、国を挙げて「エコ」に取り組んで解決できるのだろうかという疑問もある。さらには武田邦彦氏を筆頭とする懐疑・否定派がこぞって地球温暖化のウソなどを暴き始めている。これまで一方的だった議論が均衡に保ち始めているようだが、環境問題について誤解があることも確かである。
本書はその環境問題の誤解について迫っている。

1.「日本も捨てたものじゃない」
環境問題について日本も例外なく槍玉に挙げられている国である。とりわけヨーロッパと比較して日本が悪いというような論調が多々あるように思える。しかし日本はもう30年以上も前から環境対策を行っていたことはご存じだろうか。30年以上前というと1974年に起こった「第1次石油ショック」というのがある。先頃のような原油高が急速に値上がりし、軒並みトイレットペーパーやティッシュが品薄になるという事態に発展した。原油高のために原油が原材料であるナイロン、それを使う工場の作業着が環境にやさしく薄手にし、さらに水俣病などの公害病の対策のために水の浄化や排気ガスの規制もいち早く行った。
槍玉に挙げられている日本だが、世界一の長寿国であることはもう周知の事実であろう。日本に次ぐ長寿国はというと、アイスランドやスペイン、スウェーデンなどのヨーロッパ諸国が連なっている。それでもなお環境について悪いニュースが飛び交うのか、本書では否定する証明ができないとされているが、その理由についてTV局の現実について書かれているが知識の欠乏をある種の開き直りとしてとらえられているところが許し難い。

2.「健康不安に打ち勝つ」
最近ではあまり聞かないが昔「環境ホルモン」というのが話題になったのをご存じだろうか。「環境ホルモン」は非常にわかりやすく言えば外的物質によるものにより男性化や女性化を阻害するような物質であり、「男らしい」や「女らしい」ではなくなってしまう物質である。微量でも著しい効果を表すのでメディアは大げさに広めたという。
さらにガンも全体的には死亡率が上昇しているが、高齢者の増加に伴うことから高まったのではないかというのが著者の意見としてあるという。これはなかなか面白い指摘である。
本書は3年前に出版されているためここでは中国産商品について書かれていなかったが、おう吐などにより死んだ例はないということだけは釘を刺しておく(ただし、中国産は気をつけなくてはいけない面はある)。

3.「所詮は人が決めたこと」
1.で槍玉に挙げられている理由としてあるのが「京都議定書」。これは1997年に議決され、昨年から適用期間に入った。日本は90年に比べて温室効果ガス (CO2含む)を6%削減を義務付けられたが2007年には8%も増加しており、世界的に非難を浴びている。1.でも言ったとおり90年は日本では二酸化炭素の排出量は少ない。ヨーロッパでは東西ドイツ統一や独立などの冷戦によって環境問題に着手できる状況になかった。90年代比というのは実のことを言うとヨーロッパにとっては好都合のものである。つまりは政治的に環境問題の対策を決めてしまったということ。それを決めたのは国の政治家。
「所詮は人が決めたこと」それに尽きる。

4.「暮らしやすい地球のために」
では二酸化炭素の排出量は上がっているのかというと、急激に増加している。それは人口増加も一端を担っているということを忘れてはならない。さらに森林伐採も人々がより住みよいものにしたい、そして物的に豊かにしたいということから伐採などを行っている。人口増加も伴っているためそこには家も建つ。環境問題は人々全員が豊かになれば解決できないという暴論ではあるがその答えに至ってしまう。
持論展開はここまでにしておいて、今巷は「温暖化」「温暖化」と一点張りになっている。しかし20年以上前は「温暖化」のフレーズは使われていなかった。むしろその逆の「寒冷化」と言われていた時である。二酸化炭素が増加しているにもかかわらず、である。さらに一昨年では記録的な猛暑、昨年ではゲリラ豪雨となったが、ここでも環境問題と連結する議論になってしまっている。異常気象と言えば異常気象であるが、異常気象自体は環境問題と関係があるのかというとあまり関係のないことである。というのはずっと同じ異常気象が続くかというとそうではないからである。これは本書の意見と同じである。

5.「環境の「常識」に惑わされない」
環境問題については科学的に立証しているものが少ない。むしろ「仮説」だらけである。ただビジネス書には「仮説力」という名がついている本がある。仮説を立てれば、思考の方法によって最適解に行き着くというものであるが、これを環境問題にリンクできるのかというと非常に難しい。自然の原理を仮説づけて解決に至るには毎年変わる環境をどのように見ていくのかという作業も必要なため仮説をつくるたびに対策を行うというのは近視眼的な気がしてならない。しかも仮説の中から「常識」化しているのだから環境問題の扱いは怖い。

私たちにできることは二つ。環境問題に関心を向け、そしてそこから疑いを持つこと。もう一つは自分自身納得のいくものであれば少しでも取り組んでみること。そこからではないかと私は思う。何よりも疑うこと、そして自分で考えることが何よりも惑わされない唯一の手段である。