筑摩書房 松本様より献本御礼。
「慢性疼痛」という言葉は私自身、本書に出会うまで聞いたことがなかった。しかし得体の知れない痛みは体験したことがある、というより今も体験している。もう大学3年の頃からであろうか、ずっと肩や背中に痛みを覚える。これもまさか「慢性疼痛」なのか、と疑いさえしていながら本書を読んでいる。
私事はさておき、本署は得体の知れない痛みでありながらも、医学的にも解明できておらず、ましてや家族らに認知されにくい「慢性疼痛」の現状と、その対策についてを追っている。
第一章「「心因性による慢性疼痛」とは何か」
皆様の中には理由も無くどこか痛むようなことはあるだろうか。私は最初にも述べた通りである。
その痛みが何か心理的な原因によってもたらされることがある。
第二章「「得体の知れない痛み」という疾患」
根拠のない痛みは時として仕事や生活に支障をきたしかねないほどにまでなる。
そういったときに病院に診察にいくのだが、結局「異常なし」という診断を下されること多い。
医者にも周りにも認められない。しかし痛みだけは残っている。痛みと孤独感のダブルパンチに苛まれているという現実がある。
第三章「なぜ心療内科医が痛みを診るのか」
しかしその「痛み」を診療するために「心療内科」に通う人が増えているのだという。「心療内科」とは何を診るのか、という所から見る必要がある。
「心療内科」ができ、厚生省(現:厚生労働省)に標榜科として認められたのが1996年であり、ごく最近できた科である。主に心身症や摂食障害など心的な病気から、気管支喘息などの病気も見ると言われており、扱われる病気のヴァリエーションも他の科と比べても内科くらいである。
ここで心療内科と痛みである。ふつう起こる痛みであれば、薬などの処方を行えば日数はまちまちであるが直すことは可能である。しかし「慢性疼痛」は違う。「慢性疼痛」は薬などの治療を行っても、完治せず、痛みが再発するのだという。心的な要因であることから、心療内科では「催眠療法」や「カウンセリング」「心理療法」などによる治療を行っている。
第四章「治療という戦い」
「慢性疼痛」の療法には時として「絶食療法」という荒療治も行われる。本章ではその療法のあらましと顛末についても紹介されているが、本章のタイトルにある「戦い」にあるとおり、壮絶なものであるが、それ以上にその荒療治に挑む前の患者と医師のやりとりがそれを印象づけられているようであった。
第五章「「分かってもらえない痛み」への理解」
第二章にもあるのだが、本来ある痛み以外にも、医師や周りの人たちに「わかってもらえない」精神的な痛みも伴う。もっとも後者の方が痛みの根元的な原因にもなるため、周りの人間にも「慢性疼痛」を抱えている人がいる場合、受け入れる度量を持つことも大きな処方箋になる。
「ストレス社会」と言われて久しく、「うつ」や「心的疾患」などの言葉がよく使われる。「慢性疼痛」もこのような社会にでてきた病の一つであろう。医師頼りにだけするのではなく、むしろ周りの支えをもつこと、そのことによって「慢性疼痛」は少しでも減らせるのではないだろうか、と私は考えてしまう。
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