最近では「ビジネス書」をよく見かけ、当ブログでもビジネス書をよく取り上げる。しかし最近になって「貞観政要」などの古典にも目を向こうとしており、これから書評に関するシリーズを挙げているが、いずれも「古典」にフォーカスを当てている。
元々古典は読みにくい印象があったのだが、読めば読むほど、その作品についての深みを覚え、読んでいくうちに時が過ぎるのを忘れてしまう。まさにじっくり読むためであり、考え方としても興味を持てるような面白さがある。難解ではあるものの、一つ一つ紐解いてみる面白さがある。古典にはそのような要素が沢山詰まっていると思う。
この時代だからでこそ「古典」の価値は見直すことのできるいい時期なのかもしれない。その入門案内として本書がある。
<文字を手に入れて、すべては始まった>
日本語、もしくはその文字は中国大陸から伝来され、日本独自の文化として醸成されたのだが、その文字の原点として「万葉集と「伊勢物語」、さらに作品ではないが在原業平、小野小町をはじめとした「六歌仙」について取り上げている。
<この思いは三十一文字じゃ収まらない>
「三十一文字」は「和歌」の「5・7・5・7・7」の合計した文字数を指している。その「三十一文字」のなかで自分自身、もしくは相手への思いを綴っている。百人一首に出てくる和歌の多くは平安時代に謳われており、とりわけ「恋」にまつわる和歌が多く占める。本章で取り上げる「土佐日記」や「蜻蛉日記」にもこの「三十一文字」の世界を描いている。
<これが私たちの言葉、私たちの情熱>
日本を代表する古典作品として取り上げられるのが、「源氏物語」であり、「枕草子」であり、「更級日記」である。その代表する作品はすべて女性が絵書いた作品であるが、女性たちの「情熱」がひしひしと、物語に込められている。
<市井の人々の声が聞こえる>
「市井(しせい)」とは一言で言えば「巷」と呼ばれており、人々が集まる場所を指す。根源は古代の中国大陸に井戸すなわち水のある所に人が集まり、市ができたからと言われている。
色々な人々が伝えられる話、それが物語や説話、といったものになり、「今昔物語集」や「日本霊異記」といった作品が生まれた。
そして本章では、あまり知られていないものとして「梁塵秘抄(りょうじんひしょう)」も取り上げられている。
「梁塵秘抄」は平安時代、後白河法皇が編纂した歌集であり、その内訳として、「梁塵秘抄」が10巻、そして「梁塵秘抄口伝集」が10巻と成り立っている。一般的な「梁塵秘抄」はそれらを総称して表している。
<この気持ちを名づけるなら、無常>
「無常」という熟語が出でくるものとして取り上げられるのが、「この世は無常」ということを取り上げた「方丈記」、そして「諸行無常」と冒頭で語った「平家物語」が挙げられている。
<貴族たちに残されたもの>
平安時代において、和歌は貴族が愉しむために作られたものとされており、貴族たちが詠まれた和歌は前にも書いたのだが百人一首などで後世に語り継がれている。その和歌を集めたものとして「古今和歌集」や「万葉集」、そして本章で紹介される「新古今和歌集」もその一つである。
和歌のみならず、物語の中でも「とはずがたり」といった鎌倉時代の日記文学として貴族があまり取り上げたくない所についても取り上げている。
<動乱期が心を揺さぶる>
時代は鎌倉時代・室町時代に移る。その間にある時代を中心としたときは「動乱期」と呼ばれるほど戦などが度々起こった時代と言える。その中で生まれたのが「太平記」であり、「徒然草」である。
<句のもとに集う人々>
「句」というのは言わずもがな「俳句」である。その「俳句」に代表する人物として「松尾芭蕉」が挙げられる。その「俳句」という呼び名になったのは正岡子規が初めてであり、それ以前は「和歌」や「句」と呼ばれていた。松尾芭蕉が生まれる遙か以前の「和歌」には「連歌」と呼ばれるものがあり、本章でもそれが取り上げられている。
<平和の時代の贈りもの>
江戸時代に入ると元禄文化や化政文化といったものが栄え、文学作品としても研究としても、芸術にしても、大いに発展した時期となった。現在における伝統芸能として落語や歌舞伎もその時代に誕生した。文学としても「好色一代男」の井原西鶴、「浄瑠璃」「歌舞伎」の近松門左衛門などが取り上げられている。
古典は古代から江戸時代まで、もっと広くなると明治・大正まで広げることができ、その時代の背景や文化、さらには日本古来から続く「伝統」を味わうことができる。巷にある本よりは読みづらい部分はあるかもしれないが、読み砕けば砕くほど深みが増し、文化そのものを愉しむことができる。その愉しむことのできる先に私たち日本人として大切なことが詰まっている。古典にはその力が秘められていると言っても過言ではない。本書はその入り口に誘う水先案内人と言える一冊である。
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