「わたし」や「他人(他者)」について考察をおこなった哲学は数多く存在する。しかし「あなた」について考察を行った哲学は日本で本書が初めてであると著者は語る。
そもそも「哲学」は何を考察するのか、というと「私」や「彼」などの人間の内面について様々な理論を通じて考えることがメインであり、「あなた」について考察を行っているわけではない。
そもそも「あなた」は「他人」の範疇に入るためなかなか考察されなかったのかもしれない。
しかしなぜ「あなた」を考察するのか、そして考察した先に何が見えたのか、本書はそれを追っている。
第一章「“三世代存在”としての「あなた」」
「三世代存在」というのは以下のようなモノがある。
・「わたし」「他者」「あなた」
・「わたし」「かれら」「あなた」
そのうち、「わたし・かれら・あなた」の関係については「一般社会」として表している。その「あなた」について上野千鶴子や森崎和江の文献などから読み解いている。
第二章「「人称」の世界へ」
「あなた」という言葉は「二人称」として表現される。一人称は「わたし」、三人称は「彼」「彼女」などである。これは中学の英語や国語などでよく説明される。
しかし哲学的に考察をすると、本当に「二人称」と扱って良いのだろうか。本章では岩崎宏美の歌や夏目漱石の小説、そして日本語の用法をもとに考察を行っている。
第三章「飢えと老いのなかの「あなた」」
「飢え」や「老い」を題材にした文学作品をもとに「あなた」とは何かについて考察をしている。しかしなぜ「飢え」や「老い」を題材にする必要があるのだろうか。考えられる理由として序章に、
「しかし、戦後はふたたび、「搾取」や「疎外される人間」「植民地化される人間」のことが主題になりだし、ヨーロッパ中心の人間学に対して、そこからはずされた人びとを「他者」と呼びなおして主題歌する思想が生まれていった。」(p.11より)
とある。「戦後」というのは第二次世界大戦の後のことを表しており、資本主義経済が台頭してくることにより「搾取」の概念が再び出てきて、格差も同様に出てきたのだという。それが「他者」の思想が生まれ、「困窮」における状況の歌や作品にうつる「あなた」が生まれたのである。
第四章「ブーバー、レヴィナス、そして西田」
哲学者のなかでマルティン・ブーバーの「我が汝」、そのブーバーを批判したアマニュエル・レヴィナス、そして「私と汝」という論文を発表した日本の哲学者、西田幾多郎の「あなた」の哲学を比較している。
今も昔もそうだが、街でよく聞く「歌詞」、家や喫茶店などで読む「小説」「詩」のなかに「あなた」と使われることが多い。その「あなた」は誰のことを指しているのか、と聞きたくなるようなことも往々にしてある。その「あなた」は何なのか、本書は哲学的な観点で「考えさせられる」一冊だった。
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