元々日本では「木材」を重宝し、家などの建物に使われた。江戸時代は「木」で作られた建物がほとんどで、例外というと城の石垣くらいだったが、明治維新になった時に「木は脆く、火事や地震に弱く、古臭い」といって蔑視し、レンガなど非木材が使われた洋館を建設するようになり、戦後になると、その潮流がさらに加速し、コンクリートや鉄を多用するようになってきた。さらに木材の蔑視は拍車を書け、林業に対して、木材に関して知識がどんどん少なくなっていった。
ところが、昨今では木材が再評価されつつある。本書は忘れかけていた日本の森林の可能性について資源としての「革命」が起こる可能性を秘めていることを指摘している。
第一章「近代林業の個性」
「林業」というと所有している森林の木を栽培し時期が来ると機を伐採して、木材化して売買する、といった考えを持ってしまう。他にも環境問題の兼ね合いから「森林は伐採せずにそのままにすべき」という考えがあり、伐採をし、木材として販売する林業にとっては逆風となっている現状がある。
しかし、森林は保存するだけが全てではなく、伐採をし、新たに栽培をする事で、自然の循環を起こす。自然の循環を起こすことにより、環境に変化をつくり、伐採した木を木材として扱うことによって私たちの生活との共生を生むことができる。
第二章「近代と林業」
近代において「森林」は「魔界」だったと言われている。これは元々ヨーロッパにあった考えであり、19世紀につくられたグリム童話「赤ずきん」にも森の中は「恐怖」という観念にとらわれていた。
また、森の中はオオカミなどの獣が棲み着く場であり、狩猟の対象となる場所として知られていた。日本でも「禁野(しめの:天皇の猟場と定め、私人の狩猟を許さなかった所。大和国宇陀野や河内国交野(かたの)など。)」と呼ばれる丹後も存在した。
しかし現代に入って、森林に関する学問「林学」が成立し、森林の役割が研究されるようになってきた。
第三章「アグロフォレストリーのすすめ」
「アグロフォレストリー」とは本書で出てきた言葉であるが、以下のように定義されている。
「アグロフォレストリーとアグリカルチャーとフォレストリーとの合成語で、直訳的に混農林業である。その古典的形態は焼畑農業である。」(p.156より)
焼畑農業というと環境問題で森林を失う、温暖化ガスが大量に放出される原因として槍玉に挙げられるのだが、焼畑農業の利点として、焼いた時にでた木炭や土が肥料となり、肥沃な土地となり、農地として格好の場所になる。「焼畑」の概念は農業に限らず、住宅や工場にすることも少なくないのだが、再び林業として木を植えるケースも存在する。いわゆる「焼畑林業」であり、ドイツでは存在していたという。
第四章「日本林業の内なる基本問題」
日本における林業が衰退した原因はいったいどこにあるのだろうか。歴史を紐解いてみると、高度経済成長に伴い木材の需要が急速に伸びていき、国内の木材価格が急騰した。その状態を鑑み、外材の輸入を本格的に始めたこと、さらに需要に対する供給に対応できなかったことにより、日本の林業は衰退した。
現在、木材の需要は高度経済成長ほどではないものの需要はそれなりにあるものの、外材に依存七得る状態が強くなっている状況にある。しかし外字アハ国産材より高くなってきている。
第五章「国有林を赤字にしたもの」
国産材の供給が減少した。その煽りをうけて国有林が赤字となり、採算の取れない状況が続いているという。その原因には「業界体質」にあるのだという。
第六章「「木材革命」が起きている―「国産材時代」への追い風」
著者の調査によると1980年代から平静にかけて、木材の需要は伸び始めているという。そのことが本書のタイトルである「木材革命」と呼ばれており、国産材を推進できる追い風になっている。その要因として質の高い木材が要求されること、さらには木を越える木材である「集成材」が作られていること、BRICsなど経済が成長している国々も木材輸入に頼っていることなどが挙げられる。
日本の林業は衰退の一途を辿っているが、第六章にも上がっているとおりチャンスと言われている。それ故に、農業と同じく林業に就く人も少なくないのだが、経験不足といった新たな問題もはらんでいる。その問題を以下に解決していくのかと言う課題もあるのだが、林業における千載一遇と呼ばれるチャンスをどうつかみ取るか、これは林業のみならず国全体としても考慮すべきものである。
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