マキノ雅弘―映画という祭り

コアな日本映画ファンであれば「マキノ雅弘」という名をご存じだろう。「マキノ雅弘」は「日本映画の父」であるマキノ省三(牧野省三)の息子であり、戦前から戦後にかけて261本もの映画作品を監督してきた(しかし応援監督や共同監督もあるため実際の数は定かでは無い)。

現在の日本映画史の根幹を担ってきたマキノ家、そしてマキノ雅弘が残した映画の数々には何が残ったのか、本書はそのことについて取り上げている。

第一章「破れかぶれの映画渡世」
本章に入る前に「マキノ雅弘」の生涯について書いておきたい。マキノ雅弘の本名は「牧野正唯(まきのまさちか)」であり、「マキノ雅弘」は職業名である。しかも職業名は生涯において5回変えており、子役から使っていたマキノ正唯、監督デビューをしたときはマキノ正博、そして本書で書くマキノ雅弘、その後にマキノ雅裕、マキノ雅広と変わっている(他にも脚本家としての名前も数多くあるが、あまりにも多すぎるのでここでは割愛する)。
本章の話に戻す、その雅弘がなぜ「破れかぶれ」となってしまったのか、それは子役から監督デビューしてからは父親のマキノ省三の下で働いたが、経営難に陥り父親の設立した会社は倒産、その後も「雇われ監督」として映画監督のメガホンを持ち続けてきたが、監督デビューからずっと作品が途切れること無く生み出された。

第二章「映画という祭り」
雅弘のメガホンを取った映画のジャンルは多岐にわたる。その中で時代劇もあれば、刑務所もの、さらには恋愛、文学ものなどもあり、守備範囲は非常に広かったと言える。その中で「祭り」となっている部分として、戦中のヒット作である「阿波の踊子(戦後、「阿波おどり 鳴門の海賊」という名でリメイクされた)」と戦後間もない時に上映された「彌太郎笠」などが挙げられている。

第三章「歌と笑いの綴れ織り」
雅弘の映画の中で燦然と輝く作品は数多く、とりわけ名俳優のスターダムを作った、いわゆる「出世作」と呼ばれる作品も生み出した。昨年逝去した高倉健の出世作として挙げられる「日本侠客伝」もその一つである。「日本侠客伝」といえば勧善懲悪のヒーローというイメージが持たれるが脇には漫才師や落語家などお笑い芸人として置いたという。

第四章「ヒーローと大衆」
マキノ雅弘の映画の中で印象的なシーンの中に「ワッショイ!ワッショイ!」というかけ声と画面がある。有名なものとして1937年に上映された「血煙高田の馬場」のラストシーンがある。この「ワッショイ!ワッショイ!」というシーンは他にも様々なシーンで活用されており、それは「大衆」を映えているものであるという。

第五章「ヒーローの見せ方」
大衆など脇役の中でどのようにして「ヒーロー」を見せるのか、そこにもマキノ雅弘の流儀が存在した。本章では長谷川一夫や三船敏郎、さらには高倉健といった主演を張ってきた方々の見せ方について取り上げている。

第六章「ラブシーン作法」
ラブシーンというと、自分自身興奮してしまうのだが、ここは落ち着かせて書く。男女の情愛シーンはマキノ映画にて、やくざ映画・時代劇映画関係無く多用された。その中で濃厚な愛のシーンと言うよりも、男女の罵り合いやセリフの「あや」を生み出して愛を生ませるという演出もなされた。そのことを本章にて取り上げている。

第七章「リメイク考」
マキノ雅弘が監督デビューした時は、ちょうど「サイレント」から「トーキー」に移ったこともあり、大量にリメイクすることが多かった。他にも戦前上映された作品が戦後にタイトルを変えてリメイクするということもあった。雅弘の場合も他人のリメイク、さらにはセルフリメイク問わずに行ってきたのだが、いずれもリメイク元の作品を超える、あるいはオリジナルの演出を加えるなど、雅弘らしさを生み出すように仕掛けられていた。

第八章「次郎長三国志」
「次郎長三国志」は1952年に第一部が上映されてから1954年の第九部が上映されるまで2年間で九部も作り上げた。著者はマキノ映画を語る上で欠かせないものであり、なおかつマキノ雅弘黄金期につくられたということから本章では「次郎長三国志」を余すところなくクローズアップしている。

戦前から戦後までの映画の歴史を紡ぎ、映画を語る上で欠かせない「マキノ家」の根幹を担ってきたマキノ雅弘。今もなお地上波で見ることができるだけでは無く、レンタル・DVD販売・ネット配信問わず視聴する機会は容易にあることから、本書と共にマキノ雅弘映画を観てみてはいかがだろうか。

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