いとしこいし想い出がたり

あけましておめでとうございます。本年も「蔵前トラックⅢ」をよろしくお願い申し上げます。

新年1発目として本書を取り上げます。「初笑い」という部分で。

私自身お笑いが好きであるのだが、昨年は様々な訃報があった。関西を中心とした上方の演芸に焦点を当ててみると初頭には上方落語四天王の一人である三代目桂春団治氏が、年末には吉本新喜劇のメンバーで「パチパチパンチ」で有名な島木譲二氏がこの世を去った。そのことを考えると上方の演芸の歴史の生き証人がまた一人失った寂寥感がぬぐえない。

本書の話に移る。上方の演芸、それも漫才で多くの歴史を彩ってきた夢路いとし・喜味こいし両氏(通称:いとこい先生)の思い出について、喜味こいし先生自身が「聞き書き」という形で綴っている。

<一>
いとこい先生の漫才の歴史は長い。先生以上に長い芸人として挙げられるとしたらナイツの師匠として有名な内海桂子氏しか挙げられないほどである。幼いころは「子役」として俳優として活動していたが、後に漫才師として歩むことになった。1937年のことである。少年漫才として、今のしゃべくり漫才を醸成しようとしたが、当時しゃべくり漫才の認知度は低かった。その漫才生活の中で吉本興業との出会いもあり、当時吉本の総支配人だった林正之助氏、さらには戦前上方漫才の象徴だったエンタツ・アチャコ両氏との出会いもあった。

<二>
しかし日本は大東亜戦争の戦禍に巻き込まれることとなった。その影響からかコンビの活動を停止することとなった。その中で戦争ではどのような歴史があったのか、その歴史を綴っている。

<三>
活動を再開したのは戦後間もない時である。その後ずっと「師匠」として崇める存在となった漫才作家・秋田實氏との出会いもあり、「夢路いとし・喜味こいし」としての漫才をさらなる高みへと登っていった。

<四>
夢路いとし・喜味こいし両氏は右肩上がりで人気が上がり、レギュラー番組を持つまでになった。また数々の漫才の賞を受賞することとなったが、その時の心境を綴っている。

<五>
夢路いとし・喜味こいし両氏は多くの芸人に慕われたが、弟子は持たなかった。それにもポリシーがあり、漫才としての本質をつかんでいたような感じがしてならなかった。他にも上方芸人との交流はどのようなものだったのかを綴っている。

上方漫才、もとい演芸そのものの歴史を彩ってきたいとこい先生だからでこその歴史が存在する。その歴史は漫才がある限りなくなることはなく、流麗かつ面白い漫才は今もなお生き続けている。その歴史の証拠がここにある。

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