わたしの心のレンズ 現場の記憶を紡ぐ

今となっては「写真」は色々な所・もので撮ることができる。専用のカメラはもちろんのこと、スマートフォンなどでも行える。しかもその写真は個人で楽しむばかりで無く、InstagramなどのSNSサイトで、友人や不特定多数の人びとと共有することができる。

写真はそういった表現に使われるのだが、他にも様々な出来事を表す、あるいは現場における悲しさ、怒りなどもまた写真として表れることもある。本書は写真家として世界各地を取材し、戦争やコロナ禍などの様々な場面の写真を掲載して、日常・戦争・コロナ禍などあらゆる世相を取り上げている。

第一章「歪んだ日常/コロナ禍に思う」

当たり前となっていた「日常」はコロナ禍ともに崩れていった。むしろ「変わった」とも言うべきなのだろうか。それは人それぞれのためわからない。著者は写真家として世界を飛び回っていたのだが、コロナ禍による渡航制限もあり、なかなか移動することもできない状態が続いていた。とりわけコロナの第1波の時は、コロナ前にあった喧噪が嘘のように静かになり、ある種ゴーストタウンのような空気となった。マスクも着用しなければならず、あたりはマスクだらけになった。他にも海外における「差別」、福島第一原発などについて取り上げている。

第二章「戦禍~不条理から/ベトナム、ユダヤ人強制収容所、カンボジア」

コロナ禍も「不条理」であるとするならば、「戦争」はそれ以上に「不条理」である。その「戦争」にまつわる写真、さらには記憶について第二次世界大戦、ベトナム戦争、カンボジア内戦の3つを取り上げている。

第三章「戦争の終わりとは何か/広島、長崎、沖縄」

本章では大東亜戦争、それも1945年の末期における写真と記憶を取り上げている。沖縄戦から、広島・長崎の原爆投下の状況。そして今も残る「被ばく」などがある。

第四章「本当の共生と共存について/ニューギニア」

「人」と「自然」との「共生」は日本でもあるのだが、果たして本当の意味での「共生」とは何かは私にもわからない。本章ではニューギニアを引き合いに本当の「共生」を取り上げているが、ニューギニアの文化・事情に合わせた「共生」であり、一つの例として捉えた方が良い。

戦争にまつわる写真はいくつも本などを通して見てきているのだが、写真の表情・情景から見る当時の状況がある。しかし生の声は現地に行かないとわからないことが多い。本書はその「生の声」もさることながら、写真の裏に隠された記憶が綴られていた。