戦国時代において、キリシタン大名と呼ばれる方々がいた。その中には5年前に列福された高山右近もいる。やがてキリスト教が禁止になり、江戸時代が終焉し、明治時代に入ると少しずつではあるのだが、キリスト教が信仰されることとなった。代表的な人物としては内村鑑三がいる。また本書で紹介する山本信次郎もまたキリスト教徒であり、おそらく軍人の中でも最も敬虔なクリスチャンであると同時に日本とバチカンとの関係を深めることに大きく貢献した人物ともいえる。その山本信次郎の生涯とともに、戦前の日本とキリスト教の関係性について取り上げている。
第1章「愛国のクリスチャン」
山本信次郎は明治10年に現在の神奈川県藤沢市に生まれ、小学・中学と学んだ。ちなみに出身中学は暁星中学校であり、元々カトリックに基づいた学校で、山本はその経験からキリスト教への理解を深めることとなり、16歳で洗礼を受けた。受けた後、神父からの薦めで軍人への道を進むこととなった。
第2章「東郷平八郎の「副官」」
卒業後、海軍兵学校を卒業し、日露戦争の日本海海戦にも参戦した。その後の降伏交渉ではフランス語通訳としても活躍した。さらに「軍神」と称された東郷平八郎海軍元帥の専属副官にも任命されたが、やがて軍から離れるようになった。
第3章「昭和天皇の語り部」
1919年に東宮御学問所御用掛(とうぐうおんがくもんしょごようがかり)に任命され、当時皇太子であった昭和天皇に仕えることとなった。もっとも東宮御学問所の総裁が前章でも取り上げた東郷平八郎だった。その時にヨーロッパ5カ国訪問に付き添ったのだが、キリスト教徒として時のローマ教皇であるベネディクトゥス15世との会見にも尽力したほどである。
第4章「国益を担う「外交官」」
その頃から実質的な「外交官」として担うようになった。なぜ「実質的な『外交官』」かというと、正式には外務省としての外交官ではなく、昭和天皇を使える身として海外に随伴して海外要人とやりとりしていたことから表されている。そのことから日本とバチカンの関係を深め、なおかつ日本におけるカトリックの重要性を深めたとも言われている。また教皇庁の使節として教皇に謁見してキリスト教における問題の解決に尽力した。
第5章「山本信次郎の「一粒の麦」」
カトリックの信者としての信仰活動を行いながらも、日本とバチカンの関係を深め、なおかつカトリックを一つのメディアとして「カトリック・タイムズ」を相関するなど、カトリックの信仰に尽力したが大東亜戦争の真っ只中である1942年に逝去した。
昨年の11月には現教皇のフランシスコが日本に訪問した。教皇の日本訪問はヨハネ・パウロ2世以来のことであり、連日報道されるまでになった。元々日本のメディアでは教皇のことを「法王」と称していたが、このときばかりは「教皇」と称されていたことは印象的だった。日本とカトリック、今もなお深く続いている関係の中には山本信次郎の尽力があったことに違いない。
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