プロ野球オーナーたちの日米開戦

日本においてプロ野球が生まれたのは1920年の時である。ちょうど100年を過ぎたのだが、コロナ禍においてもプロ野球は根強い人気を誇っている。強さを追い求めるチーム、パフォーマンスも含めたチーム、地域に根ざしたチームなど様々である。大東亜戦争以前にもプロ野球チームが存在しており、チームの中にオーナーも存在していた。本書ではそのオーナーに焦点を当て、オーナーたちとプロ野球、そして大東亜戦争との関わりがどうであったかを取り上げている。

1章「内閣誕生」

本書で取り上げるオーナーは表紙にもある通り3人いる。巨人のオーナーとして君臨した正力松太郎、阪急のオーナーとして辣腕を振るった阪急電鉄の小林一三、そしてセネタースのオーナーであり、日本中央競馬会第2代理事長として競馬の発展に大きく寄与し、最も有名なG1レースでもある「有馬記念」の由来となった有馬頼寧(ありまよりやす)を挙げている。

3人とも実業家である一方で政治の世界にも携わった。大政翼賛会の政党として有馬は事務総長や第1次近衛内閣の農林大臣、正力は総務を担っており、小林に至っては第二次近衛内閣において商工大臣として入閣していた。本章における「内閣誕生」はこのことと、戦前のプロ野球を支えた「日本職業野球連盟(現:日本野球機構)」の誕生といったものがある。

2章「日中戦争」

職業野球の概念ができ、プロ野球のリーグもできつつある時期に、日中戦争が開戦した。選手の中には兵士として召集される人もおり、中には戦死者も出た。

3章「兵力増強」

選手の中には兵士として召集される一方で「軍隊野球」と呼ばれるものもできた。なぜできたのか、また1日のトレーニングや状況はどうなったのか、その実例も取り上げている。

4章「新体制運動」

日中戦争を境にアメリカとの関係も悪化。呼称についても英語が禁止されるほどにまであった。プロ野球もチーム体制はもちろんのことリーグのチーム数なども年々変化し、さらには満州リーグ戦などもできた。

5章「日米開戦」

しかし戦争はさらに激化し大東亜戦争も開戦した。選手たちの中にも兵士として召集される人も増えてきて野球の試合数も減少していった。ついには1944年には週末のみの開催となり、同年の秋からは休止された。

本書で取り上げられた3人のオーナーは財界はもちろん政治にも深く関与し、プロ野球界にも影響を与えた。日本におけるプロ野球の100年にも及ぶ歴史の基礎を築いた3人と戦争、それは切っても切れないものだった。