神々の復讐 人喰いヒグマたちの北海道開拓史

すでに時期は冬に入っており、熊を始め一部の動物は「冬眠」の時期に入り、ある意味落ち着いたシーズンと言える。それ以前までは特に出身地である北海道を中心にクマの出没情報が後を絶たなかった。襲われたといった話はほとんどなかったものの、先日、熊を飼っていた人が、その熊に襲われ、亡くなったという痛ましいニュースがあった。

熊に襲われて殺されるというニュースはホットなようでいて、大昔はいくつかあった。本書は特にヒグマと北海道の歴史とともに、「人喰い熊」の真相を追っている。

第一章「明治初期の人喰い熊事件~石狩平野への人間の進出」

北海道は江戸時代以前は「蝦夷地」と呼ばれ、一部の地域は「松前藩」などの藩はあれど、ほとんど未開拓の場所であった。その地域にはアイヌが住み、独自の文化を育んでいった。

やがて明治になり、「開拓使」が設置されて、各地で開拓するようになってきた。ソーラン節の中にあるニシンの漁も盛んに行われた。その中で特に札幌を中心に温暖な土地から開拓していったのだが、現在の札幌市東区丘珠町にて発生した「札幌丘珠事件」が1878年に起こった。

第二章「鉄道の発展と人喰い熊事件~資本主義的開発とヒグマへの影響」

明治時代は進んでいくと、日本では西欧諸国のような資本主義へと変容していった。それと同時に北海道でも鉄道が発展して行く一方で、人喰い熊事件が起こった。明治30年代に岩見沢て人喰い熊事件が発生した。

第三章「「枝幸砂金」と人喰い熊事件~ゴールドラッシュの欲望と餌食」

道北でも同様に人喰い熊事件が発生したが、その中でも最大の事件は次章にて述べる。道北の枝幸町では明治時代において砂金が採れることが分かり、いわゆる「ゴールドラッシュ」に沸いた。しかし砂金の採れる場所は山々であり、当然熊たちも生息していた。そのことによる事件も起こった。

第四章「凶悪な人喰い熊事件が続発した大正時代~三毛別事件余話と最恐ヒグマの仮設」

その人喰い熊事件もとい熊害(ゆうがい)と呼ばれる事件の中で最大の物として「三毛別羆事件(さんけべつひぐまじけん)」である。

場所は留萌地方にある苫前町にある「三毛別(現在の「三渓」)」にて起こった。1915年の12月に起こった。死者7名、負傷者3名を出した。その事件は未だに謎に包まれている所が多かったのだが、本章では明かされていなかった真実を中心に取り上げている。

第五章「軍事演習とストレスレベルの関連性~大正美瑛村連続人喰い熊事件」

旭川からほど近い美瑛でも、人喰い熊事件が起こった。当時は日本陸軍の美瑛演習場があった時代である。その当時の軍事演習とストレスの関連性、そしてここでも起こった人喰い熊事件の関連性を取り上げている。

第六章「受け継がれる人喰い熊の「DNA」~北見連続人喰い熊事件」

第一次世界大戦の最中にあった日本において北海道もまた、発展していった。その中でオホーツク地方の北見において、人喰い熊事件が連続して起こった。その真相を紐解いている。

第七章「十勝岳大噴火~天変地異とヒグマの生態系との関連」

昭和になる少し前の1926年5月、十勝岳にて大規模噴火が発生した。5月は季節的に春だが、標高2077メートルある十勝岳の山頂・麓ではまだ雪が残っていた。そのため、融雪型火山泥流が発生し、144人の死者・行方不明者が出た。特に「泥流」が有名で、三浦綾子の小説「泥流地帯」のモデルにもなっている。本章ではこの大噴火と人喰い熊事件の関連を分析している。

第八章「炭鉱開発と戦中戦後の人喰い熊事件~封じ込められたヒグマの逆襲」

大東亜戦争の最中・戦後と言った時代の中でも人喰い熊事件はあったのだが、当時では夕張を始め「炭鉱開発」が盛んに行われた時代である。この「炭鉱」が栄えたことによってヒグマが離れ、人喰い熊事件が減少していったという。

第九章「樺太~パルプ事業の拡大と戦慄の「伊皿山事件」」

現在ではロシア領サハリンとなっている「樺太」でも、北海道と同様に開拓が進んでいった。それと同時に樺太でもまた「伊皿山事件」などの人喰い熊事件が起こった。

人喰い熊事件、いわゆる「熊害」と呼ばれる事件は現在で言うとゼロではないが、滅多に起こっていない。先日、熊を飼っていた人が、その熊に襲われ、亡くなったという痛ましいニュースもあり、もし来年以降熊出没のニュースを甘く見て令和の人喰い熊事件が起こることもありうる。大昔の話かもしれないが、本書で起こった人喰い熊事件を教訓に今後熊との関わり方をどうすべきかを考える必要がある。

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