津田梅子―女子教育を拓く

少し前に「この空のずっとずっと向こう」にて取り上げたのだが、明治時代に入り、アメリカにて文化などを学ぶために「使節団」として100人を超える日本人が渡っていった。その中に女子留学生が5名いた。先述の本では吉益亮子を取り上げたのだが、本書で取り上げるのは、その5名の女子留学生で最年少である津田梅子である。満6歳でアメリカに渡ったが、その中で何を学び、そして「希望」をもって、女子英学塾(現:津田塾大学)を創始したのか、その足跡を追っている。

1章「アメリカへ」

津田梅子は1864年に江戸の牛込南御徒町にて生まれた。元々梅子の家庭は海外との関わりもあり、父の津田仙はキリスト教徒であり、なおかつ教育にも熱心で、後の青山学院大学の母体となる青山学院を創始した人物として知られる。そもそも梅子が6歳でアメリカに使節団として留学できた理由に父・仙の存在があった。

2章「「家庭生活」を学ぶ」

アメリカに渡り、ホームステイを行った梅子だが、そこでアメリカにおける「家庭生活」や語学などを学ぶことになった。5人の女子留学生のうち吉益亮子を含む2人は病気などを理由に途中で帰国することになったが、梅子は留学を続けた。帰国する1881年までの10年間、様々な所を渡り歩き、学びを得ていった。

3章「帰国」

1882年に帰国の途についた。その後青山学院の源流となる海岸女学校にて英語教師として働く。その後に伊藤博文との出会いを経て、女学校の教授にもなった。しかしその前後をして縁談の話もあり、女学校時代前後の上流階級との付き合いの苦しさもあった。

4章「再びアメリカへ」

留学時代の友人の薦めもあり、再びアメリカへと留学することになった。今度は学問の研究も兼ねてである。その研究の成果はイギリスの学術雑誌に掲載されたが、これが日本人女性として史上初めての事例ともなった。

5章「希望に向かって」

帰国してから、三度アメリカへと渡り、そこでヘレン・ケラーやアン・サリバン、ナイチンゲールなどの出会いもあった。

6章「夢の前進―学校設立へ」

梅子には女性として、そして教育者としての「夢」があった。その夢の結晶が「女子英学塾」として実を結ぶことになったが、それまでのプロセスと開学してから現在までの津田塾大学として梅子が後世へ伝えていったことを取り上げている。

昨今では女性の社会進出はもちろん、教育に関してはもはや男女平等に学ぶ機会が当たり前になってきた。しかし梅子が留学・活躍していた時は主に男性が中心だったこともあり、なかなかうまく行かない状態だったのだが、その状態から切り拓いた功績は大きく、2024年の5千円札紙幣のモデルにもなる。

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