創刊の社会史

日本には約3000冊もの雑誌があるという(p.15より)。しかしその中で創刊や復刊、休刊や廃刊になることが頻繁にあり、一昔前の「モー娘。」のように出たり入ったりせわしないほどである。

本書はその中でも「創刊」についてフォーカスをした一冊のように思えるが、雑誌、問い訳ファッション誌を中心とした「傾向」について考察を行っている一冊である。

第1章「それは「山師」である」
「山師」というのは、

「山の立木の売買」「鉱山の採掘事業」(p.27より)

だという。
本章では「平凡(パンチ)」や「an・an」といった雑誌が紹介されていることから後者の意味合いが強いように思える。

第2章「それは「柳の下」である」
これは「柳の下の泥鰌(ドジョウ)」のことを言っている。
要するに群がるようになるということである。前章の「an・an」を皮切りに多くの女性誌が誕生したことから本章では「non・no」をはじめとした女性誌が多く取り上げられている。

第3章「それは「瀬踏み」である」
上方落語の「七度狐」が本章の最初に取り上げられている。「瀬踏み」の意味合いを知るのにはもってこいの噺である。
ここでは女性誌の臨時増刊号について取り上げられている。「女性誌」の増刊号としての「分身」ということからこの「瀬踏み」というのが名付けられたのだろう。

第4章「それは「黒船」である」
これに関しての定義の説明といった野暮ったいことはしない。
海外に視線を向けた雑誌について書かれている。草分け的存在となったのは「月刊PLAYBOY」であるが、そのほかにも「POPEYE」というような雑誌もある。ここで初めて女性誌以外にも目を向けている。

第5章「それは「伴走者」である」
世代から世代へとバトンタッチするような雑誌についてである。
ここでは「週刊平凡」→「クロワッサン」というようなリレーを代表的に取り上げられている。
特に80年代では「クロワッサン症候群」や「クロワッサン文化人」というのが流行語になったほど社会現象になったという。

第6章「それは「兄弟姉妹」である」
兄弟誌、姉妹誌のことを言っているのだろう。
特に女性誌は若い世代からミセスの世代まで数々の年代別、嗜好別の雑誌が生まれた。
雑誌の増加はあたかも細胞分裂のように増殖していき、やがて蜘蛛の糸のように複雑関係になるほどであった。

第7章「それは「カレ誌」である」
容易に想像できる。
というのは「non・no」で言ったら「メンズnon・no」といった雑誌が有名であること。
また女性誌「JJ」からは「JJ Boys」といったものも代表的なものとされている。

第8章「それは「アウトサイダー」である」
「アウトサイダー」
いわば一瞬で終わるという徒花となった雑誌を紹介している。あまり聞きなれない名前なのでここでは割愛。
まさに「アウトサイダー」である。

第9章「それは「キャットファイト」である」
第10章「それは「青田刈り」である」
9章から10章の中間までは女性誌の狂喜乱舞といっていいだろう。特にコギャル向け、お姉向け、小悪魔系というように女性誌におけるターゲットの幅が狭まりだしたと言っていいくらいである。「どのような世代」というよりも、「どのようになりたいのか」というのを重視している。
10章の後半では男性を対象にした雑誌だが、前述の男性版を短く紹介した程度である。男性というと「ギャル男」や「お兄系」というように「コギャル」「お姉」のそっくりそのまま男性版にカーボン・コピーをしたようなフレーズである(ファッションは別だが)。

第11章「それは「忘れたい過去」である」
「忘れたい過去」。それは創刊号のファッション誌を見た喜びと恥ずかしさのことを言っているという。今となっては「時代遅れ」「ダサい」といわれるようなファッションを自分は子供のように喜んだあの日というのを、雑誌を紹介しながら回想している。

雑誌の創刊というのは、初々しさがあると同時にその背景にある社会というのを如実に出ているのかもしれない。

ファッション誌はそういった社会性とは乖離しているという考えを持つ人もいるが、これが結構密接に関係しているというしかない事情がある。代表的なものとして「LEON」の「ちょい悪オヤジ」というのが社会現象になった。姉妹誌である「NIKITA」の「艶女(あでーじょ)」はそれほど火はつかなかったが。

しかも昼のワイドショーでは必ずといってもいいほどファッションについての話題が飛び交う。それに主婦層が知る。その前にも娘・息子たちは雑誌に手情報をキャッチする。それが流行となり、場合によっては社会現象にまで膨れ上がる、といった流れになる。
「創刊」というのはなかなか侮れない気質を持っている。本書はそれを教えてくれる。