戦後民主主義と少女漫画

書評をやっていることもあってか本はいろいろと読むが、それと同じように漫画も読む。少女漫画もいくつか読んだことがあり、その中でも「NANA」や「フルーツバスケット」「彼氏彼女の事情」と言ったものが結構好きである。

私情はここまでにしておいて、少女漫画は第二次世界大戦後から広く親しまれており、戦後少女漫画史というのが漫画評論家でコミックマーケットの代表を務めた故・米澤嘉博氏が書かれた「戦後少女マンガ史 (ちくま文庫)」が非常に詳しい。

本書は1970年ごろからの少女漫画史についてピックアップを行っているだけではなく、重箱の隅に置かれるような少女漫画を取り上げられており、観点もユニークであることから米澤氏のそれとは違いを見られる。

序章「七〇年代少女漫画前史――戦後民主主義と成熟の拒否」
本書は1970年代における少女漫画をピックアップしている。
では、なぜこの時代をピックアップしたのだろうか、それは60年代から続く「60年安保」や「大学闘争」から続く「左翼運動」から始まり、沖縄返還、第一次石油ショック、四大公害病と言ったどちらかというと国と国民が対立という構図の第2ラウンドというのがある。
漫画史では手塚治虫や赤塚不二夫などの少年漫画と言ったものが大ヒットした時でもある。それに伴いアニメも盛んに放映されるようになった一方、少女漫画も大きなうねりがあり、ジャンルが一気に広がりを見せ始め、やおい作品が生まれ始めたころであった。

第一章「大島弓子と『バナナブレッドのプディング』」
大島弓子の「バナナブレッドのプティング」は1977年11月号から1978年の3月号まで5号連続で連載され、のちに単行本となった。
今から32年前の作品であるため入手は難しそうに思えるが、増刷していれば手に入らないことはないのだが、どれだけヒットしたのかは私でもよくわからない。
しかしこれだけは言えるのが当時の少女漫画はタブーと言ったものはほとんどなく、ジャンルも問わず自由に書けるという所が魅力的だったこともあり、ほかにも理由はあるものの大島氏はそれに誘発して少女コミックに活動の舞台を移したという
その影響があってか「バナナブレッドのプティング」が非常に良い作品に出来上がった一つの理由なのかもしれない。

第二章「純粋少女とは何か?」
「バナナブレッドのプティング」は「純粋少女」として最も際立つ作品だとされている。本章はこの「純粋少女」について解明している。
「純粋」という言葉をとある辞書を検索すると。

・まじりけがない・こと(さま)。
・けがれがないこと。邪念や私欲のないさま。
・外的・偶然的なものをまじえず、それ自体の内的な普遍性・必然性をもつさま。(一部抜粋)

というのがある。「純粋少女」の「純粋」とはどれに当てはまるのだろうか。本章を観てもよくわからない。やはり「バナナブレッドのプティング」を読んでから書評すべきだったということを悔やむ私。

第三章「萩尾望都と『トーマの心臓』」
次に紹介される作品は萩尾望都の「トーマの心臓」である。
連載が始まった当初は趣味的な作品と考えていたせいか、人気は芳しくなく、打ち切りの可能性もあったという。しかし徐々に人気が出始め、今となっては代表作の一つとして挙げられ、舞台や映画化されるまでになった。
こちらも読んだことはないのだが、これだけの人気なので探すのは容易だと考えられる。
さて、この「トーマの心臓」では作画のみならず、ストーリーにまで突っ込んでいる。またそれに関連して萩尾氏の作品の作風にまで言及を行っている。

第四章「岡崎京子と『ヘルタースケルター』」
本書は70年代の少女漫画をピックアップしていると書かれているが、本章のタイトルにある「ヘルタースケルター」は2003年に発売されたものである。「70年代の作品は?」と勘繰ってしまうのだが、70年代から始まった「純粋少女」の変遷をたどる作品であれば筋が通っている。

本書は70年代から続いている少女漫画「だけ」をピックアップしている作品かと思った。しかし中身はそうではなく70年代から始まった「純粋少女」を題材にした漫画を取り上げている。少女漫画と言うと、ぶりっ子や白馬の王子様というような表現から、性表現に至るまで良くも悪くも幅広い。その草分け的となったのが「純粋少女」なのかもしれない。