「日本のこころ」の底ぢから

日本人としての心というと皆さんは何を思い浮かべるだろうか。
「礼儀正しさ」「武士道」「大和魂」、女性であれば「大和撫子」を連想するだろう。
かつては礼儀作法や日本人としての在り方を学ぶ「修身」という授業があり国語や数学と同じように必須科目であり、重要科目であった。しかし、それが軍国教育の一環とGHQに見なされ、終戦と同時に廃止となってしまった。今では「道徳」がそれに代わるものとなっているが、もはや形式でしかなく、日本人とは何かを学べる機会が無くなってしまったという他ない。

本書はそのような教育の現状を嘆き、真の日本人教育とは何かについて熱く書かれた一冊と言える。

第一章「日本しか見なかった教育の終焉」
教育の終焉が見られたのは日本だけだという。それもそのはずである。明治時代から必須科目として成り立っていた「修身」の授業、そして軍部主導の政治が「皇国教育」をつくってしまった。とりわけ前者が戦後GHQにより廃止されたというのは日本人としての「こころ」を失ってしまったという考えもある。

第二章「戦後教育の悲哀」
戦後GHQにより「3R、5D、3S」の政策が立てられた(pp.26-27より)。
「3R」・・・復讐、仕組み直し、アメリカの都合があうように復活させる
「5D」・・・武装解除、軍国主義の排除、工業力の除去、財閥解体、アメリカ流の自由主義へ転換
「3S」・・・セックスの解放、スクリーン、スポーツ
それを形成させた根幹に日本国憲法というのがある。

第三章「ゆとり教育の行方」
90年代から文部省(現:文科省)主導による「ゆとり教育」が進められた。本来の「ゆとり教育」は幅広い思考力を身に付かせる(たとえば討論を行うなどをし、深くとらえる力を身につけさせるのもある)、地域とのコミュニケーションとの向上をするという目的があった。
しかしメディアを中心に「授業時間削減」といったものがピックアップされていたが、それが学力低下の要因になったという論者も多い。実際に学力が低下した要因はいくつかあるのだが、「ゆとり教育」が「ゆるみ」となり「ゆがみ」となったと著者は主張している。

第四章「「日本のこころ」の意義と象徴」
「日本のこころ」とはいったい何なのか、どういった意味があるのかについて書かれている。
日本のこころとして特徴的なのが「和魂」である。「大和魂」も「和魂洋才」にしても「和」の「魂」が込められている。

第五章「日本の歴史にみる「日本のこころ」」
日本の歴史の中にもそういった「和」や「魂」という言葉がでており、その中で「武士道」や「大和魂」といわれることがある。「武士道」について名文かしたものでは国際連盟の副議長にまでなった新戸辺稲造が挙げられ、「大和魂」では安政の大獄により処刑された吉田松陰の辞世の句が始まりである。

第六章「「日本のこころ」と自然・文化・伝統」
元々日本人は仏教の思想も根付いてか牛や豚などの肉を食べることを禁じていた(「殺生」により禁じられていたが、鳥や兎は食べられていた)。
日本人は自然と宗教を合理的に結びつかせながら、共存をはかり、それが長きにわたって続いた歴史がある。

第七章「「日本のこころ」と教育」
日本の教育低下とともに「教育再生」を唱えた政権があった。そう、安倍政権である。安倍政権下では約50年ぶりに教育基本法が改正され、日本人としての教育の復活が予感させられたが病に倒れたことにより辞任せざるを得なくなった。それからというものの教育の改革への時間が止まっているように思えてならない。

第八章「生きる力の発揚」
著者が主張するに昨今は「間」抜け時代といわれている。「間」といっても様々なものがあり、「世間」「人間」「時間」などが列挙できる。そのなかで日本人としてどのように生きるべきかについて書かれている。

第九章「「日本のこころ」で生き抜こう」
本章ではそれほど難しいことが書かれていない。あせらず、あわてず、嗜みを持つ。そして「和のこころ」をつけること。それが日本教育として本当の要素ではないだろうかと語っている。

「日本人は日本を知らない」

一昔前に某CMで言われた言葉であるが、日本人の教育事情、さらには現在ある日本人のアイデンティティを見るとその言葉が鋭く突き刺さる。今では「道徳」が日本人としての心の教育としての役割を担っているが、必須科目ではなく、所によれば軽視されている。技術や能力としてはレベルは確実に上がってきている。後は「心」を鍛える教育がこれからの課題といえる。

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