今の日本はまさに「ぜいたく」な社会である。日本のみならず、世界的な富裕層のなかにも「ぜいたく」を行っている方は多い。
と考えると、ふと自分自身考えるのが「ぜいたく」とは何なのか、という問いが頭に浮かんでしまう。その問いに自分は「お金に糸目をつけずによけいなものをたくさん買うこと」という答えを小学生の頃から持ち、同時に「ぜいたく」に関する嫌悪感を持っていた。
しかし、今となっては「金遣い」にしても「時間の使い方」にしても、様々な「ぜいたく」があるのだという。そもそも「ぜいたく」とはいったいどのようなものなのだろうか。本書は「ぜいたく」について近代ヨーロッパの時代から現代に至るまでの歴史とともに、成り立ちを含めた考察を行っている。
1章「リュクスの劇場―きらびやかな男たち」
そもそも「贅沢」とは、辞書で調べてみると、
「(1)必要以上に金をかけること。分に過ぎたおごり。
(2)ものごとが必要な限度を越えていること。」(「広辞苑 第六版」より)
とある。
さて、「ぜいたく」における歴史の最初には、フランスにおける絶対王政の象徴の一つだった太陽王・ルイ十四世のヴェルサイユ宮廷文化からである。そのときからは貴族階級は「浪費」こそが美徳としてあり、「労働」は不名誉なことであるのだという。
2章「背広たちの葬列―ビジネス社会へ」
イギリスやフランスなどで産業革命が起こったときに、スラックスやジャケットが作られるようになり、やがてサラリーマンたちが着るスーツができるようになった。社会そのものも「ビジネス社会」に発展するようになり、贅沢そのものもブランドに対する投資と金銭にまつわる「豊かさ」がぜいたくとなり、「忙しさ」や「効率性」こそ「美徳」となっていった。逆に「ヒマ」といったものが悪であると定義された。
3章「ラグジュアリーな女たち―様々な意匠」
贅沢を求めるのは男性ばかりではない。むしろ女性もあらゆる所で「贅沢」を求める。本章では贅沢を求めた女性たちの中で古くはベルエポックやサラ・ベルナール、日本人では森茉莉や与謝野晶子、白州正子の贅沢について考察を行っている。
4章「禁欲のパラドクス―修道院という場所から」
「禁欲」が主であり、一見「贅沢」とは縁遠い印象がある修道院だが、修道院によってはステンドグラスや水路といった建物などの面から、シスターたちの下着など細かいところでの「贅沢」が存在する。
「贅沢」は今も昔も存在しており、時代とともに変わっていく。また、そもそも「贅沢」そのものの定義も「金銭」や「衣装」「建物」などの形のあるものから、雰囲気など形のないものに至るまで存在する。経済は回復の一途をたどっているのだが、その中でも「お金で買えない贅沢」というのは存在する。「贅沢」の心は今でもあなたの中にある。
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