評伝 服部良一~日本ジャズ&ポップス史

戦後歌謡曲の根幹を支えた人物は数多くいるのだが、その中でも燦然と輝く存在として作曲家の服部良一が挙げられる。有名な曲を挙げると戦前では「別れのブルース」「蘇州夜曲」「一杯のコーヒーから」、戦後には「東京ブギウギ」「夜のプラットホーム」「青い山脈」などが挙げられる。数多くの曲を遺し、日本歌謡界の礎を作った作曲者はどのような生涯をたどっていったのか、本書はその評伝という形で取り上げている。

Ⅰ.「大阪時代―道頓堀ジャズ」
服部良一は大阪の天王寺にて生まれ育った。生まれた頃から河内音頭、そして少年時代には道頓堀でジャズに親しみ、常に音楽に触れる環境にあった。そのこともあって音楽の才能が磨かれ、発揮された。しかし家の収入は非常に苦しく、小学校卒業後承認になる事で家族の生計を立てようと思い、商業学校に通いながら働きに出るという「苦学」を行う事となった。
しかし嫌気を差し始め姉のすすめで音楽隊に入隊したが、当時第一次世界大戦が終焉したことによる不景気があり、解散となってしまった。

Ⅱ.「苦闘の時代」
その後オーケストラに入団した後に音楽理論や作曲を学んだ。その傍ら、ジャズ喫茶でピアノを弾いており、そのことが作曲や指揮などの音楽の血肉ともなった。それからコッカレコードやタイヘイレコードと渡り歩き、コロムビアの専属となった。活動拠点もディック・ミネの助言により東京に移った。

Ⅲ.「ブルースからブギへ」
服部良一がコロムビア専属になったのは1936年の時だった。その翌年に出たのが最初に書いた「別れのブルース」だった。歌唱は後の「ブルースの女王」となる淡谷のり子であり、曲が出る前は妖艶なソプラノで有名だったのだが、アルトにシフトしたきっかけともなった。さらに元々ブルースは黒人から生まれた音楽の一つであったのだが、服部良一はそれを日本にできないかと研究を重ねた結晶の一つとして出されたのが「別れのブルース」である。その後「雨のブルース」などのブルース曲を次々と世に送り出していった。それからスウィングジャズやラプソディーなどにも興味を示し、曲をつくっていった。
やがて大東亜戦争が起こり、ジャズ音楽から離れざるを得なかった。その当時は軍歌が次々と出る風潮にあったのだが、元々服部は消極的、かつ不得手だったことから、世に送り出した軍歌は非常に少なかった。その戦争時に上海に渡りブギウギをつくることになった。

Ⅳ.「ブギウギの熱狂」
そのブギウギは戦後、笠置シヅ子の「東京ブギウギ」になった。後に笠置シヅ子は「ブギの女王」と呼ばれる様になった。また、戦前に発禁処分となった「夜のプラットホーム」もヒットした。そして昭和歌謡の名作と呼ばれる藤山一郎、奈良光枝の歌唱による「青い山脈」を生み出した。元々行っていたジャズやブギウギ、さらにはシャンソンやロカビリーなどの要素を取り入れつつ、独自の「服部メロディー」を構築していった。そしてその考え方は息子である服部克久など数多くの人物により受け継がれている。

「音楽で身を立てることができたことに、天を仰ぎ、地に伏して神に感謝を捧げたい」

これは1993年頃に「服部良一追悼番組」の最後にて語られた服部良一本人の言葉である。幼少の頃から音楽に触れ、そして数え切れないほどの曲を世に送り出し、戦前・戦後にわたって日本の歌謡界を支え続けた功績は、没後「国民栄誉賞」として形となった。もちろん曲も今もなお歌い継がれており、服部良一の残した足跡は今も私たちの記憶に残っている。