陸軍士官学校事件 – 二・二六事件の原点

昭和初期から二・二六事件に至るまでの間の中で陸軍では「皇道派」と「統制派」との対立が起こっており、二・二六事件までの間その対立は激しさを極めていた。その二・二六事件の起こる前の1934年に「陸軍士官学校事件」が起こる兆しを見せた。「兆し」と書いたのは計画こそはあれど、情報漏洩のためメンバーが憲兵に逮捕され、未遂に終わったことにある。しかしながらこれがきっかけとなり、さらに対立が深まり、二・二六事件へと移ることとなった。

その事件はいかにして計画されたのか、計画されるまでどのような対立があったのか、本書はそのことについて考察を行っている。

第一章「皇道派と統制派の対立」
まずは昭和初期にあったタイトルにある対立である。まずは「皇道派」は真崎甚三郎や荒木貞夫を中心としたメンバーがいるのだが、そのほとんどは青年将校である。主に思想家である北一輝の思想を受けて昭和維新を目指そうとした軍人たちを指している。方や「統制派」は永田鉄山や東条英機などがおり、法律を遵守しながら軍部を統制した国防国家を築き上げるといったことを是としていた。その対立の背景は複雑であるのだが、一つとして明治維新からあった「長州閥」と「九州閥」との対立も一因としてあったという。

第二章「陸士候補生と青年将校運動」
陸軍の卵を育てるために「陸軍学校」があったのだが、なかでも「陸軍士官学校」は将来の将校を養成するための機関として存在した。その士官学校の中でも保守・革新といった対立があった。中でも革新派は「皇道派」にほど近い思想を持っており、事件の中核を担う人物もいた。

第三章「「直接行動計画」から憲兵隊による検挙まで」
本書の核心の一つであるが、なぜ「未遂」となったのか、そして「行動計画」はどのようにして組まれていったのか、そしてなぜ憲兵に情報漏洩となったのか、そのプロセスについて考察を行っている。

第四章「陸軍士官学校における捜査の展開」
この未遂となった事件について士官学校を中心にどのような捜査が展開されていったのかを取り上げている。もちろん第一・二章にて取り上げられた人物も度々出てくる。

第五章「軍法会議から磯部・村中の免官まで」
軍に対する反発は秩序を乱したことがもあり、軍法会議にかけられることとなった。その中で磯部浅一、村中孝次の二人は停職となり、その計画に加担した士官学生の5人は退学となった。しかしながら、停職となった両名は後に二・二六事件を起こし、軍法会議にて銃殺刑に処された。

第六章「真崎甚三郎教育総監から見た陸軍士官学校事件」
陸軍士官学校事件の当時に教育総監だった真崎甚三郎は第一章でも述べたとおり皇道派の中心の一人であったのだが、そもそも真崎は事件についてどう見たのか、そのことを取り上げている。

第七章「陸軍士官学校事件の帰結ー全体的考察」
陸軍士官学校事件は間違いなく二・二六事件へとつながるきっかけの一つとなった事件である。その事件は未遂であったのだが、陸軍内にてどのような影響を与えたのか、そのことについての総括を行っている。

昭和史においてはあまり知られていない事件であるのだが、二・二六事件へとつながる出来事においては欠かせない要素の一つである。未遂に終わった出来事は本書で取り上げた事件の他にも「十月事件」や「三月事件」などがあるのだが、未遂に終わった事件の中では重要な位置を占めているように思えてならない。