増補版 大平正芳 理念と外交

ご存じの方は今となってそれ程多くないものの、大平正芳は昨今の日中・日韓の国交を築いた人物であり、なおかつ保守政治家の大家であった。通称「アーウー宰相」や「讃岐の鈍牛」と言われ、なおかつ知性派として辣腕を振るった。しかしながら自民党の分裂による解散により首相のまま逝去したとも知られている。

生誕して110年、没して40年というちょうどの節目に大平正芳の生涯を追っているのが本書である。

第1章「「楕円の哲学」―大蔵官僚」
冒頭にある「讃岐の鈍牛」の「讃岐」は大平正芳の出身地である。小中と卒業し、商業学校を卒業。その後住友系の企業に憧れて就職しようと考えたのだが、同郷の大倉次官に挨拶に行くと、その場で採用を受けて大蔵官僚への道を歩むこととなった。今のように公務員試験を受けて合格するようなことではなく。その後税務畑を戦前から戦後にかけて就いた。

第2章「政界への転身―池田内閣官房長官まで」
大蔵官僚時代、当時の大蔵大臣だった池田勇人の誘いにより衆議院議員となった。現在も続く自民党会派の「宏地会」が池田勇人によってつくられると、亡くなるまで所属することとなった。当選後から池田勇人の側近として働くこととなった。後に池田が首相になってからは官房長官に就任しさらには次章以降では外務大臣に就任するなど順調にキャリアを積み上げることとなった。

第3章「始動する大平外交―池田内閣外務大臣」
大平が初めて外務大臣に就任したのは1962年のことである。このときに韓国との国交正常化交渉の一端を担っており、実際に日韓の国交正常化に最も貢献した政治家の一人とも言われたほどである。

第4章「「戦後の総決算」―自民党筆頭副幹事長から宏池会会長へ」
やがて自民党としてのポストを歩むようになり、池田内閣の後の佐藤内閣では政調会長を務め、さらには通産大臣を務めることとなった。その頃から高度経済成長期に入り、「戦後」と言う言葉が総決算とされる時が来たほどだった。日米関係の外交はもちろんのこと、経済的な交渉も行うようになった。

第5章「外交の地平を追う―田中内閣外務大臣」
田中角栄が首相になってからは再び外務大臣を務めることとなった。田中内閣としては日中国交正常化が挙げられるのだが、それを大きく担ったのが大平であった。この頃から「三角大福」と呼ばれ、三木武夫・田中角栄・福田赳夫との争いもあった。

第6章「内外の危機―田中、三木内閣大蔵大臣、自民党幹事長」
金脈問題で田中角栄が首相を辞任すると再度「三大福」の争いとなり、三木武夫が首相に就任した。その時は大蔵大臣。そして福田赳夫が首相に就任すると自民党幹事長に就任した。しかし自民党内では疑惑が渦巻いており、野党も躍進を遂げており、「保革伯仲国会」と呼ばれるほどにまでなった。その時にパーシャル連合を唱えて、野党と協調し、国会の円滑化を図ると言ったこともあった。

第7章「環太平洋の秩序を求めて―首相」
そして首相に就任したが、自民党内には主流派・反主流派といった派閥対立があり、それが大平を大きく苦しめた。増税などを行おうとするも、その対立が深まり、四十日抗争を経て、与野党とも予想しなかった内閣不信任決議案可決となり、ハプニング解散となった。その心労が祟り選挙期間中に逝去した。

「政治は小魚を煮るが如し」

これは本来老子の「大国を治むるは小鮮を烹るが如し」という言葉そのものであるのだが、大平が首相時代、ある新聞記者に向けて発言した言葉である。特にパーシャル連合を行うなど、繊細な政治運営を行うこととなった中でまさに小魚のように煮崩れしないようにしていく姿勢を表しており、大平の首相を始め閣僚になったときの考えの基本になったに違いない。

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