直向(ひたむ)きに勝つ 近代コーチの祖・岡部平太

昨今のスポーツでは見直されたとは言えど、未だに「精神論」「根性論」で語るような指導者もいる。中にはそればかりに主張しすぎてしまい、スポーツをすることの楽しさ、さらにはスポーツを通しての人間形成を無視してただただ「勝利」だけを求める「勝利至上主義」がまだ残っている。もちろん勝利をすることも大切だが、勝利・敗北はあくまで結果でしかなく、その前後のプロセスも兼ねて今後の人生に対しての糧となる。

またスポーツについても科学的な観点を含めて多角的なアプローチを行う事によってスポーツの技術的な発展を支えているのだが、本書にて紹介する岡部平太がいた時代は「根性論」「精神論」がほとんどだった。その概念に反し違う角度でコーチングを行い、最近では「近代コーチの祖」として取り上げられる岡部平太の生涯を取り上げているのが本書である。

第一章「敗戦国に勝利を」

本章では岡部がコーチとして全盛を極めた1951年のボストンマラソンの監督としてのエピソードである。ボストンマラソンはプロランナーの川内優輝をはじめ、瀬古利彦(日本人で唯一2回優勝している)など8人の選手が優勝を経験しているのだが、その初めての快挙となったこの1951年である(田中茂樹が優勝)。

第二章「天狗と呼ばれた男」

ここからは岡部平太の生涯を生まれから取り上げている。現在の福岡県糸島市に生まれ、育った。物心ついたときから運動神経が良く、柔道・剣道を始め、ボートなどありとあらゆる競技で活躍した。その反面、師範学校の講義では反発することにより謹慎処分、さらには退学処分を受けた。とはいえ柔道の活躍により卒業した。

第三章「コーチの覚悟とは」

東京高等師範学校(現:筑波大学)を経て大会役員や留学を行うようになった。留学先はアメリカで当時としては珍しい科学的スポーツ理論を学ぶことになった。その方法に触れ、科学的トレーニングに傾倒するようになった。

第四章「プロ対アマチュア」

本章では俗に言う「サンテル事件」を取り上げている。「サンテル事件」の「サンテル」はアメリカのプロレスラーであるアド・サンテルであり、日本では「鉄人」と言われたルー・テーズの師匠の一人でもある。そのサンテルから当時岡部が所属していた講道館へ異種格闘技戦の申込みがあった。もっともこの異種格闘技戦はアマチュアが栄えないことから岡部は反対したが恩師の嘉納治五郎が黙認したことにより対立。講道館を去ることとなった。(最終的には講道館の幹部たちの反対で異種格闘技戦は実現しなかった)

第五章「満洲から世界へ」

講道館を去った岡部は南満州鉄道に入社し体育主任となったことを皮切りに満洲から世界へスポーツの人材を輩出するために奔走した。サーフィンからスケート、アイスホッケーなど関与したスポーツは多岐にわたる。

第六章「宿命的な対決」

本章で言うところの「対決」は現役選手としての「対決」ではなく、「コーチ」の立場としての「対決」だった。その相手は「大日本体育協会(現:日本スポーツ協会)」やとある大会関係者たちだった。

事の発端は1925年にフィリピン・マニラにて行われた第7回極東選手権競技大会である。この大会自体の審判は全員フィリピン人であり、なおかつ杜撰な競技運営・審判が横行した。それに激怒したこの大会の総監督だった岡部は日本代表を総退場を敢行した。このことで大日本体育協会の会長で「近代スポーツの父」と言われた岸清一は岡部らを除名処分としたが、総退場した代表選手たちのほとんどが同調し、別の団体を結成した。やがてこの事実は日本にも知れ渡り体育協会は改革を断行せざるを得なくなった。

第七章「迫り来る暗雲」

その後も指導者・監督として活躍をしたのだが、1931年に満州事変勃発の際に張学良の義兄弟の逃亡を幇助したとして関東軍に逮捕された。処刑の危機もあったのだが、無罪となった。諸説はあるのだが、元々懇意にしていた関東軍司令部にて作戦参謀だった石原莞爾の助けもあったという。しかしこの事件の責任を取り、全ての役職を辞任・辞退した。

第八章「喪失と絶望」

それからも指導者・監督として活躍を行うも、やがて戦禍の足音がやって来た。日中戦争、そして大東亜戦争である。特にこの戦争を通して長男が特攻隊で戦死したことが大きな損失・絶望を被ることとなった。

第九章「平和への再生」

戦後から、体育大会誘致を行い、1948年の福岡国体の開催にこぎ着け、自ら事務局長として辣腕を振るった。このときに行われた福岡市にある平和台陸上競技場には岡部平太の胸像があるのもこのためである。

第十章「遺された教え」

精神を鍛えることを否定はしないが、そこには科学的な根拠がいる。日本には勝てと教える教育はないが、世界は違う。勝つために何をすべきかをしっかり考えてやっているんだp.246より

日本人は一つの競技しかないが、それではいけない。あらゆる競技をして、それぞれの持ち味を体感することで見えてくるものがある。指導者も日本は教えすぎだ。それでは選手の創造性がなくなってしまう。そしてもう一つ言っておく。フェアプレーで勝て!p.247より

この2つは岡部から、現在の国士舘大学の理事長である大澤英雄らへ送られた言葉である。

大澤英雄は元々サッカー選手・指導者を経て現在の職に就いているが、現在理事長を務める国士舘大学でサッカー部を創設し、活動していたときに岡部と出会った。その最初の出会いは最悪なものだったのだが、岡部の考えに触れて行くにつれ、大澤は岡部を敬愛するようになった。岡部の遺した言葉・教えは今も脈々と受け継がれている。

1966年に岡部は没したため、今年で没後55年を迎えた。岡部の提唱した方法は当時のアメリカで盛んに行われた手法であるが、そこに岡部自身の経験・考えをマッチさせているような印象が強かった。第十章にて引用した言葉の2つ目にてそれが色濃く残っている。昨今では科学的スポーツ理論も取り入れられるようになった今、その現状を岡部はどう見ているのだろうか。