「非モテ」からはじめる男性学

今となっては「非モテ」はネットを始め、様々な場でも出てきており、よく言われるようにまでなった。ここ最近ではコロナ禍により、実際に出会う機会も少なくなり、男女問わず「非モテ」は増えていく一方と言える。

そこで本書である。本書は「非モテ」を男性学の観点で、どのように見ているのかを取り上げている。

第1章「「非モテ」とは何か」

今となってはよく出てくる「非モテ」。その言葉が生まれる以前には「喪女(もじょ)」「喪男(もおとこ)」といった言葉で使われた。それが「非モテ」と変わっていったのだが、その潮目は諸説あり、よく言われているのが2009年あたりである。一方著者はそもそも「非モテ」が使われ出したのは1999年と指摘している。

第2章「「ぼくらの非モテ研究会」」

著者自身が、大学にて非モテについて研究を行う目的で「非モテ研究会」を設立し、議論・調査を含めて研究を進めていった。その中で何を議論・研究を行っていったのかという足跡を残している。

第3章「追い詰められる非モテ・自分を追い詰める非モテ」

先日とある新聞広告のことについて議論の的になっていたのだが、ジェンダー平等化という名の「フェミニズム」が広がっている中で、男性的なアピールというのも変化している。もっというと男性的にネガティブな特徴に対してどのようにとらえるかについても議論を重ねている。

第4章「女神への執着と非モテ」

男性から見て理想の女性像はどうなのかは人それぞれかも知れないが、とくに個々の理想に近づいているなかで「女神」としてとらえる人も少なくない。女性からすると「白馬の王子様」がそれにあたるのかもしれない。しかし男性の場合は女神を求めるために、人によっては考え・行動が歪なものになり、ストーキングに発展してしまうケースもあるという。

第5章「非モテから離れる実践」

非モテからどのように離れたら良いかが本章の課題である。もちろん非モテをひがむ、あるいは絶望するよりも別のことに打ち込むこともあれば、出会いの「機会」をつくることもまた手段の一つとして挙げられる。

第6章「非モテの苦悩の正体を考える」

「非モテ」の考えの中に、「どうして私はモテないのか」という被害者的な思考に陥ることが多い。しかしそのこともあれば、非モテであることが性犯罪・ストーキングになる考えについての議論も本章にて行っている。

第7章「つながりだした非モテ」

しかし非モテにも良い面と悪い面の「表裏」が存在しており、非モテでありながらも研究を行うケース、それを歯牙にもかけず、別のことに打ち込むケースもある。逆に非モテをひがみとするなどネガティブな要因にもなり得る。

男性学はこれまで当ブログでもわずかではあるが取り上げたことがある。しかし男性学における「非モテ」はどのような立ち位置かというのはあるようで、実は1度もその研究に出会ったことがない。そう言う意味では男性学の中でもある種画期的な研究であったと思える。