「ナパーム弾の少女」五〇年の物語

ベトナム戦争は冷戦の象徴の一つとして挙げられており、広義では1955年から1975年までの20年間を表しているが、本書でも扱っているとおり、アメリカ軍の介入から終戦までの間が象徴的な所として「狭義」でもって取り上げられている。

また本書の表紙にて取り上げている写真は、この戦争を象徴付けるものの一つとして挙げられており、「戦争の恐怖」と名付けられている。この写真は1972年にピューリッツァー賞を受賞しており、逃げまどう少女は後に反戦運動家となるファン・ティー・キムフックである。

この写真ではアメリカ軍によって放たれたナパーム弾によって被弾され逃げる姿が象徴となり、朝鮮戦争以降使われ続けたナパーム弾廃止へとつながっていった。戦争・武器など様々な面で象徴付けられた「ナパーム弾の少女」の当時と今、その軌跡を追っている。

第1章「ナパーム弾はこうして落とされた」

ベトナム戦争自体は1955年から始まったのだが、冷戦の象徴として他国が本格的に介入し、激化したのが1965年に「ローリング・サンダー作戦」をはじめとした「北爆」が開始されたその戦いは「虐殺」と言う言葉も使われ、やがてアメリカ全土で反戦運動が広がり、日本でも「ベトナムに平和を!市民連合(べ平連)」をはじめとした団体が生まれ反戦運動も行われた。

にもかかわらず、戦争は続き、激化していった。1972年には北爆の象徴付ける作戦の一つである「ラインバッカー作戦」が行われた。写真はこの作戦の行われている最中の6月に空襲を受けた時の所を表している。

第2章「苦痛の日々」

ナパーム弾は元々火炎放射器用として朝鮮戦争の時に配備され、使われたのが始まりであるが、その原型は以前からも使われており、大東亜戦争でも東京大空襲をはじめとして焼夷弾として使われていた。本書の写真にて使われたナパーム弾はさらに火炎の温度を高くし、ジャングルの歩兵を殲滅するためにつくられたのだが、のどかな村にも落とされ、逃げまどい、さらには南北かかわらずベトナムの人々を殺した。生き残っても、爆弾による火傷が今もなお残るといった苦しい後遺症にも見舞われた。

第3章「「サイゴン陥落」、続く混乱」

ベトナム戦争を象徴付ける出来事に「サイゴン陥落」がある。この出来事自体は1975年4月30日に起こった。この2年前にアメリカ軍の全面撤退をしており、南ベトナム軍は弱体化していった。サイゴン陥落が行われた後に南北ベトナムの統一が行われ、サイゴン市も「ホーチミン市」に変わった。ベトナム戦争は終結した形となった。

しかしその終結してわずか2ヶ月後に新たな戦争が始まった。民主カンプチアによるカンボジア内戦、そして中越戦争と次々と戦いに巻き込まれた。

第4章「社会主義体制となった国で」

さて、ナパーム弾を被弾し、火傷を負い、さらに写真に写り、ベトナム戦争における象徴的人物の一人となったファン・ティー・キムフック(以下:キム)だが、医者を志して大学に入学することになったが、統一を果たしたベトナムは「社会主義体制」となり、キムはナパーム弾を落としたアメリカを憎む、いわゆる「反米」の象徴として利用された。その圧力はキムのみならず、キムの家族にまで及んでいった。

第5章「初めて見た「西側」」

火傷の治療のため、西ドイツへと渡った。途中帰国をする事もあったが、西ドイツ・ロシア・アメリカと治療も兼ねて数々の国へキムは渡り歩いた。

第6章「キューバへ」

キムはキューバへと渡ったのだが、そこで体験した言語や文化の壁、さらには火傷の後遺症との戦いもあった。そしてかねてからずっと学びたかった大学にも通い始め、友人もできるようになった。ベトナム国内で叶わなかった「医者」になるために。

第7章「賭け」

やがてキムは恋人をつくり、結婚。そして新婚旅行へと行くこととなった。本章で言う所の「賭け」はこの新婚旅行における出来事である。夫の提案でモスクワへ新婚旅行へ行くことになったが、政府や航空会社を始めた様々な機関への説得・交渉があった。しかもその新婚旅行の後に、また別の国へ行くのだが、その行く途中にも大きな「賭け」があった。さながら映画のワンシーンの如く。

第8章「カナダでの一歩」

その「別の国」こそ、キムが現在暮らしているカナダである。戦争に巻き込まれ、様々な国へ治療や勉学に励み、結婚して、カナダに行き着いた。そのカナダでも様々な出来事があった。

第9章「転機」

ようやくカナダで落ち着いた生活を送るようになり、2人の子どもにも恵まれた。様々な国へ渡り、カナダに行き着き、生活してから、母国・ベトナムも大きく変わっていった。もちろん暮らしてばかりではいられない。働くことが必要になった時にある「転機」があった。これまでの戦争体験をもとにした講演の依頼だった。

第10章「米国へ」

やがて講演などを通じて反戦運動家の道を進んでいき、世界各地の戦争や紛争に巻き込まれた子どもたちの救済活動を行うようになった。自らもナパーム弾に巻き込まれ、火傷との戦いが続いた体験をしたことを糧に。そして米国でも講演を行った。

第11章「再びのベトナム」

キム自身のドキュメンタリー番組もつくられ1997年に上映された。さらに1999年には自伝も出版された。やがてキムは両親と再会した。しかしキムが様々な国へ渡り歩いている最中に、ベトナム政府による圧力が両親を襲っていた。その状況を知り衝撃を受けたキムは両親をカナダに呼び寄せた。そしてキムは今日もまた反戦運動家として自らの体験をもとに世界を渡り歩き、講演や活動を行っている。

第12章「五〇年へ」

反戦に関しての講演などを長年続けていく一方で、長年続いていた火傷の治療も新たな局面を迎えた。「レーザー治療」である。レーザー治療を通じて、長年続いてきた火傷の痛みも治まりつつあった。しかし戦争は未だに繰り返されており、その「痛み」はまだ残っている。

50年前、ナパーム弾に巻き込まれ、逃げ惑った少女は、ベトナムの歴史に翻弄されながら、戦争に巻き込まれた「痛み」は火傷となって長らく残り、今もなお活動を続けている。その足跡がベトナム戦争ではなく、逃げ惑った少女は戦争によって変わったものの、自らの体験として今日でも活動を続けている姿と足跡がここにあった。

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