「ヤングケアラー」とは誰か 家族を“気づかう”子どもたちの孤立

「ヤングケアラー」は前々からあるのだが、私自身初めて知ったのは5月、当ブログにて取り上げた記事が初めてである。よくよく調べてみると、2010年代あたりから実態調査はもちろん事、それに関しての支援の動きも見せている。今一度取り上げる必要があるのだが「ヤングケアラー」とは、

法令上の定義はありませんが、一般に、本来大人が担うと想定されている家事や家族の世話などを日常的に行っている子どもとされています。厚生労働省「ヤングケアラーについて」より

とある。ヤングケアラーの実態は家庭それぞれで異なっており、根本的に解決できるかというとなかなか難しいと言うほか無い。本書はそのヤングケアラーの実態を8例取り上げているのだが、病気だけでなく、それ以外の要因でもヤングケアラーになった実態もある。

第1章「兄の身代わりで空っぽになる自分―長期脳死の兄と麻衣さん」

「長期脳死」の兄のケアを行うが、その兄の「身代わり」になる覚悟と、その喪失を綴っている。以前は親の病気などが挙げられていたのだが、その固定観念が一瞬で崩れ去るような章だった。そもそも親を含めた家族と共に行うべき、支えるべきことをなぜ妹だけがという怒りさえも覚えてしまった。

第2章「言えないし言わない、頼れないし頼らない―覚醒剤依存の母親とAさん」

覚醒剤防止に関してのCMは今もいくつか流れているのだが、1982年に政府広報にてあった覚醒剤防止キャンペーンのCMは恐怖のCMの一つとして挙げられている。(以下の動画は閲覧注意)

極端な例のように見えて、実は本当に起こった実例がある。それが本章である。母親の薬物使用を行った事による逮捕により、子どもの環境が変わり、暗い影を落とすことになった。その暗い影と戦う母と子どもの姿を取り上げている。

第3章「気づけなかった罪悪感と「やって当たり前」のケア―くも膜下出血の母親とけいたさん」

親が病気に倒れてしまい、ケアが必要になることはいつおこるのかわからない。突然起こることさえもありうる話である。その「突然」が本章として「くも膜下出血」で倒れた母をケアする子どもと祖母の姿を取り上げている。

第4章「通訳すると消える〝私〟―ろう者の母親とコーダのEさん」

最近ではバリアフリー化が進んでいるとは言え、ハンディを抱える方々にとって、生きづらい部分が多い。本章では耳が聞こえない、いわゆる「ろう者」の母親を支える子ども、その子どもが向き合う「手話」の「壁」について取り上げている。

第5章「理不尽さと愛情―覚醒剤依存の母親とショウタさん」

第2章でも取り上げたのだが、覚醒剤依存の母親と息子を取り上げている。もっとも覚醒剤依存になった要因も要因であり、なおかつ息子も不登校となるなど、家庭環境は周囲から観ると「崩壊」と言う言葉が合うほどだった。母子とも、対立や離別、そして自立を経て、行き続ける姿を綴っているとともに「居場所」の意味を考えさせられる。

第6章「母親の所有物―うつ病の母親とサクラさん」

「私はお母さんの所有物じゃ無い!」

と言うドラマやマンガなどで出てくるようなセリフが、実際にある章である。とはいえ先述のセリフはというと、世間体を気にして、英才教育を受けさせ、自慢のタネにするような印象だが、本章の場合は「うつ病」が絡んでおり、なおかつ「孤立」と「愛情」が入り交じっている。

第7章「学校に行かせてくれた「居場所」―失踪した母親、残された弟と無戸籍の大谷さん」

「貧困」もまたヤングケアラーを生み出す要因にもなる。特に「子どもの貧困」が叫ばれているのだが、ヤングケアラーとの関連性もあると言うほかない。

しかも本章ではサブタイトルにもあるように母親の「失踪」と「無戸籍」が重い足枷となり、「家族」が完全に崩壊し、居場所を失ってしまった子どもたちを追っている。

第8章「〝記号〟が照らす子ども、〝記号〟から逃れる子ども」

本章で言う所の「記号」は「SOS」を表している。その記号をどう発するべきか、そして大人たちはどのように受け止めるべきかを考えるべき章と言える。

ヤングケアラーになる要因は多種多様である一方で、子どもたちに過酷な現実に遭遇しているということを8つの事例からよくわかる。もっともドキュメンタリー番組以上の「現実」が本書にあったというほかなく、では私たちはどのように考えるべきかのきっかけをくれる一冊でもあった。

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