幕末の先覚者 赤松小三郎―議会政治を提唱した兵学者

今こそ衆議院・参議院といった議会政治は行われている。もっともこの「議会政治」をなし得たのは帝国議会を樹立し「国会を創った男」として知られる板垣退助に他ならないが、板垣以前に「議会政治」を提唱した人物がいた。本書はそのうちの一人である赤松小三郎を取り上げている。

赤松は幕末にて活躍した兵学者、及び政治思想家だったが、大政奉還をされる少し前に上田藩へ帰国の途上で暗殺されるという非業の死を遂げた人物である。その赤松の生涯を本書にて取り上げている。

第一章「上田藩に生まれる──学問に励む日々」

赤松は上田藩士の次男として生まれた。やがて藩校の明倫堂で教養を学び、江戸へと遊学した。その時には数学などを学んだ。

第二章「勝海舟との出会い──長崎での日々」

幕末の時代にあたる1855年に勝海舟と出会う。元々勝は武士でありつつ、兵学や蘭学にも長けており、赤坂で塾を開いていた。その赤坂の塾に赤松は参加したこともあり、勝に入門した。その後勝の従者として長崎海軍伝習所にてオランダ人から語学を含め様々な学問を学ぶこととなった。勝海舟の活躍として咸臨丸で渡米を行うと言うのがあったが、こちらは赤松は参加していない。

第三章「英式兵制と横浜居留地──内戦の勃発」

咸臨丸に渡米しなかった理由としてちょうど故郷の上田藩にて養父の病没があった。そのことにより、赤松は家督を相続することとなった。その同じ時期に攘夷運動も盛んに行われるようになり、長州征伐に参加することとなった。その時に赤松は「憂国の志士」の一人と呼ばれるようになった。

第四章「幕末政局の舞台・上方に向かう──薩摩藩の接近」

長州征伐に参加の中と、勝の下で磨いた語学力をもとに「英国歩兵練法」の翻訳を行い出版にこぎ着けるなど、海外の知識・文献の翻訳、さらには塾を開き兵学を教えるなどもあった。

第五章「憂国の志士として奔走する──雄藩の合従連衡」

時代はだんだんと動くようになり、薩摩藩にも招聘を受けるようになった。その薩摩・長州と触れていった中で「議会」といったものを知り、幕府宛に建白書を送ると言った事もあった。

第六章「非業の死──小三郎が夢見た新国家」

1867年、第五章の建白書の他にも内戦回避のための奔走を行うようになった。しかし中には「幕奸」と疑われるようになり、薩摩藩士の凶刃に倒れることとなった。9月3日の事である。その2ヶ月後に大政奉還が行われた。

昨今の議会が創られた中で板垣退助を含め何人かの人物が議会政治を提唱していた。大政奉還し、明治時代に入る以前からも「議会」に触れ、日本でも創るべきと言った人物がいた。そのことを忘れてはならない。

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