アメリカ人弁護士が見た裁判員制度

2009年5月21日から裁判員制度がスタートする。それに向けて、もうすでに裁判員候補者へのはがき送付が行われており、しかもそれが公表されるという騒ぎも発生している。裁判員制度に関して、まだまだ課題が山積しており、スタートに向けても前途多難な様相を見せている。

本書は日本の裁判員制度の参考とした一つである陪審制をとっているアメリカの弁護士であるコリン・P・A.ジョーンズが書かれた一冊である。ちなみにジョーンズ氏は同志社大学法科大学院教授であり、日本の大学院で修士を取得したほどである。それが何よりの証拠が訳者を介さず、著者自身が日本語で書かれているという本書自体であろう。

裁判員制度は仕組みからアメリカの陪審員制度と違う。陪審員制度は全員一致が原則であるが、陪審員の人数は州によって違う。アメリカでは憲法は国単位であるが、刑法は週単位でまちまちである。しかも州によって死刑が行われていたり、完全に廃止したりしているところがあるため、一元的に比較するのが難しい。
それはさておき、裁判員制度であるが本書にも書かれているように、霞が関の役人が作った法律である。そのため、裁判の在り方が「国民のため」であるのか「日本国のため」であるのかというのが分からなくなってしまう。

裁判員制度の対象は、ほぼ有罪が確定的である重大事件(殺人事件など)である。裁判員参加によって被害者感情は反映されやすくなるだろう。だがちょっと待ってもらいたい。陪審員での判決は陪審員全員一致で反映される。裁判員制度は多数決判決であるが、裁判官が多い方が反映されるという、お飾り的な役割にしかならない。簡単にいえば裁判官3人が無罪と唱えたが、裁判員全員は有罪と判断した。結果は有罪になる。そのようなものである。

それ以前に日本の裁判制度自体ザルのようなものである。それを如実に表しているのがこの一文である。

「やっと判決が出た。だが判決はケツ拭く紙ほどにも役に立たない」(本書p.29及び副島隆彦、山口宏「裁判の秘密」より)

2ちゃんねるの管理人のひろゆき氏の裁判が有名であるがいずれの裁判もひろゆき氏が敗訴になり賠償金を支払うように命じられている。しかしひろゆき氏はこれに関して一切支払っていない。賠償債務は命じられていてもその期限が定まっていない限りその賠償責務は永久に成り立たないのである。上記の一文が如実に出ているケースと言えよう。

日本は法治国家である。だがこの状況で法治国家と言えるかと言うほど本書では裁判員制度のみならず日本の法律、そして裁判員制度を痛快につづっている一冊である。