1994年の金日成死去から約17年間独裁者として君臨した金正日が昨年の12月に帰らぬ人となった。後継者は2009年に金正恩と決まっており、実質的に金正恩を中心とする後継体制が固まっているのだという。
後継者としての修行期間もわずか3年しかなく、ましてやまだ20代後半である金正恩が最高指導者としての力が発揮されるのには時間がかかる。こう言った状況の中での北朝鮮内にある権力闘争がどのようになるのか、あるいは対外関係はどのように変化をしていくのか、本書は金正日以後の北朝鮮の考察を行っている。
1.「牙を剥いた北朝鮮」
2009~10年に北朝鮮の軍事演習が金正日の立ち会いの下で行われた。このようなアピールは日本のみならず、直接の隣国である韓国にも恐怖と批判がわき起こった。
しかしこれは北朝鮮がプロパガンダとして行う恒例のパフォーマンスであるのだという。
2.「ベールを脱いだ後継者」
金正日の後継者候補として金正恩のほかに3人取り上げられている。一人は長男で11年前に日本に密入国をした金正男、もう一人は金正哲である。
3.「前奏曲―2人の兄はなぜ脱落したのか」
その二人は2006年あたりから後継者候補からはずれることとなった。正男は自由奔放な性格と密入国、さらにはマカオで豪遊していたことが要因となれば、正哲は大病を患ったことによることで後継者から外された。実質的に後継者と金正恩が目されたのは5年前からだったと言える。
4.「倒れた金正日、立ち上がった金正恩」
そのころから金正日の容態は思わしくなく、「金正日死亡説」まで囁かれ始めた。それどころか「影武者説」まであり、本当に生きているのか、死んでいるのか判断のつかない状態が続いた。
5.「ついに打ち上げられた後継者決定の祝砲」
正式に後継者として指名されたのは2009年6月1日のことである。そのときから正恩は帝王学を学び始めた。そして後見人などの体制構築もスタートした。
6.「権力闘争始まる」
しかしその中での権力闘争が始まった時でもあった。正恩が後継者と正式に決まったときでも、長男の正男は正恩に刃を向けられたことを激怒し、ネガティブキャンペーンを広げていった。
7.「後継者ムード作りに励む共和国」
それとは裏腹に後継者と目され、祝賀などが行われるようになっていった。それだけではなく、一昨年に行われた南アフリカW杯も国家称揚に使われた(3連敗により悪夢と終わったが)。
8.「後継者デビューの合図となった中国訪問」
後継者の外交デビューの地は中国、かつて金正日の外交デビューも中国であった。金正日が外交デビューを果たしたのは1983年、ちょうどとう小平が首相として活躍をしていたときのことである。
9.「後継者の誕生、そして老いゆく金正日」
正恩が後継者となったとき、金正日の容態も悪くなっていった。それだけではなく、金正日が公の場に出る機会も減少していった。
10,「玉座に立ちはだかる壁」
本章では「ポストXデー」がやってきたときのことを想定しているが、その「Xデー」は昨年の12月に起こった。もうすでに起こってしまった話であり、正式に正恩が後継者となってしまったが、後継者の体制基盤も揺るぎないとは決して言えない。
日本にとっても拉致問題など看過する事のできない国である。それだけに正恩体制になったときに拉致問題がどのように解決をつけていくべきか、それは現在の政権のなか模索を続けているが、具体的な糸口が見えていないことは確かである。北朝鮮もまた不安定な独裁基盤を構築するのにも時間がかかることから両国のみならず、韓国、中国、米国ともに「看過できない国」として取り上げられていくことになるだろう。
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