スポーツの国際化が止まらない中で、海外で活躍をするための「マネジメント」を行う人もいる。いわゆる「マネジャー業」を行う人のことを指すのだが、スポーツ選手はスポーツをする以外にも、「契約」などの雑務も数多くこなさなければいけないため、一人で行おうにも、とてもではなないがスポーツまで手が回らないような状況に陥ってしまう。
本書は身の回りの雑務を受け持ちつつ、選手を管理する役割をもつマネジャーについて、かつてF1ドライバーとサッカー選手のマネジメントを経験した方が自らの経験を綴りながら、マネジメントの重要性について説いている。
第1章「マネジャーとは」
スポーツ選手はただ試合を行えば良い訳ではない。試合を良いものにするためにトレーニングや練習はつきものであり、トレーニングのためのトレーナーを雇う必要がある。コンディションを維持するための栄養士も同様。もっと言うとそれらを調達するための資金調達もまたマネジャーに課せられた仕事の一つである。
第2章「F1のマネジメント」
著者がF1の業務に携わり始めたのは1989年、ティレルというチームでマーケティングエージェントを行った事から始まる。この時に偶然かジャン・アレジがデビューした。アレジのデビューにより、マネジャー業務を始めるようになった。アレジのことについては次章以降の話をなる。
アレジのマネジメントをする以前は広告とヘルメットにまつわる契約の業務が中心だった。F1もといモータースポーツの世界で広告やスポンサーは切っても切れない関係にあり、広告収入がないと、マシンを作ることができない。また広告元も世界中に広告をすることができるため、高額の広告料を払ってでも掲載したい、という思いがあったという。但し、これは80年代後半から90年代前半のエピソードなので、現在は少し変わっているのかもしれない。
第3章「アレジとフェラーリへ」
前章でジャン・アレジとの出会いがあり、その後アレジのマネジメント業務も行うようになったのだが、91年にティレルからフェラーリに移籍した。そこからアレジの個人マネジメントが始まり、引退するまで続いた。ジャン・アレジは勝利こそ、1995年のカナダGPのみだったものの、ティレル・フェラーリ時代は上位ドライバーと引けをとらないドライビングとアグレッシブな戦い方により、「記録よりも記憶に残る」ドライバーとして鮮烈な印象を与えた。
第4章「再出発、そして引退」
やがて1996年シーズン前にフェラーリからベネトンに移籍し、その後ザウバー・プロスト・ジョーダンと移籍を続け、2001年に引退した。そのベネトンの移籍から下位チームをさまよう日々。アレジのフラストレーションも溜まり、対立を起こすこともあったと言う。
第5章「サッカーのマネジメント」
サッカーでは1995年よりセリエAのコンサルタント業務を始めるようになった。コンサルタント先は名門・ユベントスであった。そのユベントスには後にエースストライカーとなるデル・ピエロもいた。
第6章「デル・ピエロとの8年間」
デル・ピエロとのマネジメントの中でユベントスは上り坂の時代もあれば、急速な下り坂の時代もあった。とりわけ「急速な下り坂の時代」がもっとも印象的だった。それは2006年に発覚した一連の八百長騒動である「カルチョ・ポリ」であった。日本でも「すぽると」で毎週のように報道され、セリエAファンを中心に関心も高かった。2ヵ月以上に及ぶ捜査の末、ユベントスは過去に獲得した優勝(スクデット)が剥奪され、セリエAから一つ下のリーグであるセリエBへの降格処分もあった。そのため多くの選手が移籍していく中、デル・ピエロだけはユベントスに残った。その後のユベントスの活躍は目覚ましく、かつての栄光を取り戻したと言える。
第7章「マネジメントの現場」
マネジメント業務を務めていると、他のマネジャーと会う機会もある。本章ではF1における有名なマネジャーの話をちりばめながら、マネジャーの現場について綴っている。
第8章「世界を目指す若者たちへ」
スポーツに限らず、ビジネスの場でも日本人が海外で活躍するケースは見られる。それ故にビジネスにしてもスポーツにしても「国教はない」と言うことは、現在のサッカー界や野球界、はたまたモータースポーツ界を見れば日本人選手が海外で活躍する姿を見ることでわかる。
しかし、日本人の多くは言語の壁に立ちふさがり、また必要性もない、といって臆するというが、むしろ胸を張って海外に出た方が良いと著者は主張している。
F1とサッカーにおけるマネジメントのこと、さらにマネジメント業務を通じて選手やチームの裏側を垣間見ることができたことは、新聞や雑誌などでは知る事のできない良い機会であったのと同時に、スポーツの奥深さをしる良い一冊だったと言える。
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