先月21日に、山口県周南市金峰(みたけ)という集落で5人が殺害、および民家放火をおこなった事件で同じ集落に住んでいた男が逮捕された、というニュースがあった。警察の調べでは「悪いうわさを流されて頭にきた」と供述しているのだが、本書で言う「限界集落」そのものの現状を訴えているように思えてならない。
本書は限界集落の現状と解決策について取り上げているのだが、今回の事件と絡めながら取り上げていこうと思っている。
第1章「つくられた限界集落問題」
「限界集落」の定義は、
「過疎化や高齢化が極端に進んだため,共同体の維持が困難化している集落。この状態が進行すると,集落消滅の危機に瀕(ひん)する。近年,山間部を中心にこのような集落が増えている。」(「大辞林 第三版」より)
とある。今日の高齢化に伴い、集落が高齢化し、自然消滅の危機にあり、限界に瀕していることから「限界集落」と名付けられた。
しかし、この「限界集落」という言葉は元々高齢化に伴って、新聞・雑誌・テレビによってつくられた「俗語」であるとしている。
第2章「全国の過疎地域を歩く」
「限界集落問題」とセットとして扱われるのが「過疎化」という言葉である。前者は集落の高齢化に伴うものが多いのだが、後者は市町村が高齢化になることの他に、都会への転出が多くなっている現状にある事から名付けられている。
しかし、「本当に」集落消滅は起こっているのだろうか。
著者は数こそは明らかにしていないものの、数ある限界集落を調べてみたものの、存在しなかったのだという。さらに調べてみると、実際に1つだけ存在している。しかし消滅した理由は高齢化ではなく、ダムの建設によるものであり、全員が退去されたことによるものだという。1つだけ存在しているのは岐阜県徳山村である。
第3章「世代間の地域の住み分け―効率性か、安定性か」
本章では「政令指定都市」などの大都市、「中核市」をはじめとした地方都市、町村、集落などをカテゴライズしながら人口分布の推移と変遷と過疎化、限界集落化などを絡めて考察を行っている。
日本全体から見ると「団塊世代」や「ジュニア団塊」など様々な世代に区分けされているが、世代事に集落に残る人、大都市に住む人、地方都市に住む人の傾向が強いのかが良くわかる。
第4章「集落発の取り組み」
集落が限界化・消滅化の一途を辿る中で、集落再生に向けて、集落にしかできないことを取り組んでいる方々もいる。ただでさえ何もなく、高齢化が進んでいるのだが、発想の転換により、弱点を武器にして、インフラを整備したり、集落の特産や名所を観光資源に扱ったりという取り組みを本章では紹介している。
第5章「変動する社会、適応する家族」
最初に述べた事件が何も取り上げていなかったが、ここで取り上げることにする。集落出身の子が都会に移り住み、故郷を懐かしく思って集落に戻るという思いをした人、あるいはそれを実行した人もいるのかもしれない。社会が変化をしていく中で地方に移り住む人たちも増えており、これからは「地方回帰」の時代になる事だろう。
しかし、帰ってきた矢先、「部外者」など排斥の対象にされ、集落から再び追い返されてしまう、あるいは集落にいても中で平然と差別が行われている所もある。社会が変化していく中で、その「変化」に取り残され、都市部の考え方と大きく乖離していても、集落の世界や因習にとらわれるような現状が集落にはある。
今回の殺人事件はそのような集落の現状が投影されている様に思えてならない。
第6章「集落再生プログラム」
本章では実際に限界集落から脱するためのプログラムを行ったとある集落の現状と、復活までのプロセスについて紹介している。官民双方の力を合わせて再生をして行く中で、「古くからあるもの」と「新しく取り入れられるもの」を分けながら取り組んでいる。
東京をはじめとした大都市の一極集中化に歯止めがかからない状態が長きにわたって続いている。その一方で、発想の転換を行う、あるいは人々の努力によって限界集落を維持する、あるいは進化をすることができる。それは国の力ではなく、むしろ民の力、集落の力によって構築する事ができる。伝統や風習は残すべき所はあるのだが、進化すべき所もあるはずであり、それが日本を牽引する力にもなる。
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