徳川家が見た幕末維新

1853年、ペリーが浦賀沖にやってきてから「幕末」は始まった。幕末は「激動」と呼ばれた時代なのだが、その時代の中で幕府はどの立ち位置にあったのか、新撰組の存在、さらには攘夷派の存在など文献を探してみると山のように見つかる。
しかし本書は幕末・明治維新を幕府、それも徳川家の立場からどのように見えたのか、本書は田安徳川家の末裔の視点から紐解いている。

第一章「徳川慶喜」
江戸幕府最後の将軍だった徳川慶喜。将軍になるまでは一橋徳川家を支えたのだが、ちょうど幕末に入ったのと同時に将軍継嗣問題で、井伊直弼によって謹慎される。井伊の死後要職を勤め上げ、第十五代将軍になった。後に大政奉還・王政復古で要職は解かれ隠居の身となったが、後に貴族院議員も務めたという。
本章では徳川慶喜が大政奉還を行った後につくる新政府の構想について明かしている。それは幕府のように見えながらも、西欧の政治・文化を織り交ぜた斬新なものだった。

第二章「坂本龍馬」
幕末で有名になった人物は何人もいるが、代表的な人物として坂本龍馬が挙げられる。しかし龍馬が有名になったのは彼の死後のことであり、明治16年に高知の「土陽新聞」で龍馬がクローズアップされてから有名になっていった。
本章でクローズアップされているのは勝海舟の弟子になった時と暗殺についてである。

第三章「長州と薩摩」
幕末の時代の中で基軸となった所はいくつもある。本章のタイトルにある長州藩・薩摩藩は代表的なところである。
本章では江戸時代における「島津家」「毛利家」の関係から長州・薩摩はいったいどのような関係だったのか、と言うのを歴史的な見地で紐解いている。

第四章「幕閣・幕臣」
ペリー来航以降、幕府は戦々恐々としており、老中や大老らをはじめ、多くの人物も幕末の嵐に巻き込まれた。それまでは「鎖国政策」が行われていた。それを作ったのは第三代将軍家光の頃であったが、作られた当初は「鎖国」という文字は存在しておらず、第十一代将軍家斉の時代にあるドイツ人が「日本誌」と呼ばれる中で使われたのが初めてであるという。
ただ、言葉は使わなくても、実質的にやっていたことは確かであるが、幕府が国際的に排他的だったことは異なり、むしろ国際的な情報は常に仕入れていたいのだという。

第五章「朝廷」
ペリー来航は突然起きたことのように見えたのだが、先見の明があった人もいた。第121代天皇である孝明天皇が幕府に対し、

「海の護りを厳重にせよ」(p.146より)

という沙汰書を出した。1846年の事であり、ちょうどその時はアヘン戦争が起こった後であり、日本近海に外国船が頻繁に姿を現した事への警戒感だった。
他にも本章では王政復古などについて幕府と朝廷の関係について取り上げている。

第六章「戊辰戦争」
戊辰戦争と徳川家というと、一番印象的だったのが「鳥羽・伏見の戦い」にて戦いの最中、慶喜が大坂から江戸に向かって敵前逃亡を図った事が挙げられる。そのことで敵味方問わず大きく避難を受けたとされている。しかし本章では事前に計画され、敵前逃亡と言うよりも「脱出作戦」であったことを指摘している。

第七章「江戸城開城」
1868年、江戸城が徳川家の物から新政府軍の手に渡り、開城された。徳川幕府がこの年をもって完全に終焉したのだが、新政府の直視一行として著者の一族も行っていたのだという。後に「東京奠都(てんと)」が行われ皇城(こうじょう)を経て、現在は皇居と言われている。

「徳川家」の血筋はいくつか存在する。著者の田安徳川家もあれば、一橋徳川家、さらに徳川慶喜家もある。他に挙げてみると枚挙に暇がないほどであるのだが、徳川家は江戸時代の中心であったのと同時に、江戸時代から明治維新にかけても重要な役割を担った。その軌跡が本書に綴られている。

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