大学の下流化

「大学の質が低下している」ということを本書は指摘している。確か大学は、進学者数が、少子化とともに減少の一途をたどりながらも、大学の数は増え続けている一方である。「大学全入時代」を迎えている中で、大学生の質が落ちてきていて、大学1年生の授業で高校生の勉強の延長線上をやっているのだという。
しかし本書は「大学」そのものの体質や大学改革が間違ったベクトルに傾いていることから、質が低下しているのだと指摘している。その要因について、本書では、大学の歴史と日本の風潮とともに考察を行っている。

第1章「大学の下流化」
「大学の下流化」にも色々な要因が存在する。それは「大学の質の下流化」「大学生の質の下流化」「大学教授の質の下流化」というのがある。3つとも似ているようでいて、本質は全く異なる。
本章では「大学生の質の下流化」について、読書や生活時間の観点から、「大学教授の質の下流化」は「教員の世代間闘争」や「教授バブル」について、そして「大学の質の下流化」は「市場化する大学」「産学連携の功罪」について解き明かしている。

第2章「大学のオンリー・イエスタデイ」
「旧制高校」という言葉が使われだしたのは、明治時代から、戦後間もない時までだった。「旧制高校」は現在で言うところの高校~大学までの間を指しており、大学予科、医学・法学・工学の教育が行われていた。その「旧制高校」時代における教養の文化について本章にて現在の大学と比較しながら考察を行っている。

第3章「全共闘の時代」
戦後大学の歴史の中でもっとも外すことのできない「事件」がある。それは「大学紛争」と呼ばれており、「60年安保」から大学側の授業料の値上げなど、様々な要因によって引き起こし、全国の主要大学にまで波及してしまった。こちらについては当ブログの「シリーズ「1968年を知らない人の『1968』」」が詳しいため、ここでは割愛しておく。

第4章「逝きし日の知識人」
知識人のほとんどは大学出であり、その中には大学で教鞭を執っている人もいる。もっとも「知識人」とはいったいどのような存在なのだろうか、そして著者はなぜ「逝きし」と言う言葉を用いたのだろうか。こんな一文がある。

「日本人の知識人史も福澤(諭吉)のような知識人からみていけば、大いに違ってくるのではないだろうかと思ったものである。作家や大学教授ではなく、財界人や官僚などのテクノクラート(実務インテリ)には、福澤的な実学系知識人の水脈が脈々と続いているのではないかと思ったのである」(p.131より)

福沢諭吉を賞賛した発言なのだが、それ以降の知識人に関してはほとんど言及していない。そう考えていくと福沢諭吉の二番煎じや三番煎じといった役割でしかなく、本当の「知識人」は滅んだ、という意味合いから「逝きし」と使ったのではないか、と思われる。

第5章「大衆社会と日本人」
知識人と呼ばれる人物が「大衆社会」に迎合しているのは今ではほとんど「あたりまえ」になってきてしまっているのだが、かつてはどうだったのだろうか。その要因としては昨年の3月に亡くなった思想家・吉本隆明からの思想の歴史から語る必要があるという。本章では思想の歴史とメディアの歴史のかかわりについて考察を行っている。

第6章「ニッポン社会考」
昨今の日本では「格差社会」と言われ、凶悪犯罪も出てきていると言われている。同時に「KY」という言葉が出てくるなど、毎年のように新しい言葉が出てくるといった風潮もある。本章ではそういった社会の現状について、様々な本と交えながら考察を行っている。

第7章「道楽的職業の周辺」
「道楽的職業」という言葉を聞き慣れている人はそれほどいない、実際私も初めて聞いたほどである。簡単に言えば「趣味 = 仕事」と呼ばれるような人のことを指している。本章ではその風潮について、夏目漱石などの作品などとともに、解き明かしている。

本書は「大学」について言及したのは第1~3章しかなかった。後半部分は知識人について、そして仕事についてほんとともに自分自身の考えを取り上げた、という一冊である。ただし、中には読んだことのある本もあり、それが違った角度で読まれていたため、目の付け所を学ぶための参考材料となる。本書はそんな一冊である。

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