ローマの歴史は非常に長く、なおかつ議論も絶えない。古代ローマから遡ると紀元前753年の「王政ローマ」の建国から始まり、ローマ帝国が生まれ「パクス・ロマーナ」が起こり、やがて戦乱が続いて、帝国が東西に分裂し、オスマン帝国の攻撃で1453年に滅亡するまでとなるため、単純計算すると2206年となる。長く壮大な歴史はヨーロッパ大陸はもちろんのこと、アメリカにも影響を与えるなど、歴史的な観点でも重要な要素となっている。
そのローマの歴史の中でローマ帝国、後の東ローマ帝国における首都であるコンスタンティノープルはなぜ首都として生まれ、栄えたのか、本書はローマ史の中でも330年に建設され、ローマ帝国が滅亡した1453年まで存在したコンスタンティノープルのあらましを基軸に取り上げている。
第一章「コンスタンティノープル建都」
「コンスタンティノープル」はどこにあるのかと言うと、トルコの首都であるイスタンブールにあたる。もっともコンスタンティノープルは「イスタンブールの前身」とも言われている。なぜコンスタンティノープルに首都を建都したのかというと、背景には「3世紀の危機」と呼ばれる「パクス・ロマーナ」の時代からコンモドゥスの悪政により、衰退し、動乱の時代に入る。ローマ帝国内だけでなく、ゲルマン民族の侵入もあり、領土が分裂するなど、ローマ帝国の存亡の危機に立たされた。そこに現れたのはコンスタンティヌス1世である。複数の皇帝に分かれていたものを再統一し、ローマ帝国の礎を改めて築いた。その時に建都したのがコンスタンティノープルである。330年の時である。
第二章「元老院の拡大――コンスタンティヌスの発展的継承」
再びのパクス・ロマーナの兆しが見えた矢先、337年にコンスタンティヌス1世が逝去した。その時から後継者の権力闘争が起こった。特にこの権力闘争は3人の息子によって争われたため、実質的に「血の争い」とも呼ばれた。争いにより3つに分割されたが、コンスタンティウス2世が再統一を行った。その中で元老院の拡大もあったが、その要因について取り上げている。
第三章「移動する軍人皇帝の終焉」
軍人皇帝は「3世紀の危機」の象徴と言える皇帝である。皇帝に就くやいなや反乱が起こったり、皇帝の位を簒奪したりといったことが3世紀にわたって繰り返され、なおかつ元老院からも分離されるなど、内乱が絶えなくなった。もっとも皇帝の権威も失墜し、ローマ帝国の弱体化の要因にもなった。コンスタンティヌス1世が誕生してからはなくなったとされていたが、実際には東西ローマ帝国に分裂したときにもわずかながら存在した。やがて終焉を迎えることとなったのだが、「わずかながら存在した」軍人皇帝たちを取り上げている。
第四章「儀礼の舞台――変容する皇帝像」
歴代の皇帝像として、どのようなモニュメントや象徴としてつくられたのか、ローマ帝国における歴代の皇帝のうち、現在存在している貨幣や像などをもとにして取り上げている。
第五章「合意形成の場としての都」
そもそも「首都」というのは国の中枢をなし得る場所である。そこには政治的な決定や合意の中心地としてあり、本章のタイトルの如く、政治的な合意形成の「場」があるのもまた「都」としての機能である。
また首都自体も国によっては移動することもある。東西ローマ帝国に分裂した後の西ローマ帝国では、当初メディオラーヌムが首都だったのだが、402年にラヴェンナに移動した。当初ローマ帝国統一前の3世紀の危機と同じようにいくつもの皇帝がいた時代もあった。やがてユリウス・ネポスが殺害されると、帝政は廃止され、滅亡した。
第六章「都の歴史を奪って」
実質的に西ローマ帝国の「滅亡」はただちに西ローマ帝国が無くなったわけでは無い。しかも本当の意味で「滅亡」となったのは皇帝がいなくなった後の「ゴート戦争」と呼ばれるところである。それまでに西ローマ帝国は取って代わっていたが、かろうじて残っていた。しかしこのゴート戦争によって東ローマ帝国のものとなり滅亡したが、国力は大きく失われ、ランゴバルド族の侵攻で奪われ、ローマ帝国から手放されることとなった。
本書は3世紀の危機からローマ帝国の形成、東西ローマ帝国の分裂と言った長きにわたるローマ史の中でも「ローマ帝国」にスポットライトを当てている。実際に本書で取り上げている間の所では歴史的な出来事や戦争もあり、なおかつ古代から中世にかけてのターニングポイントとなる事がいくつもある。
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