幻の「カフェー」時代 夜の京都のモダニズム

私自身はよくカフェへ行く。勉強をすることが中心なのだが、世間話が聞こえる喧噪の中だと集中できる性質であるため、図書館で勉強するよりも捗ってしまう。もっとも高校の時からずっとそのような時分であったため、むやみに変えることは出来ない。もっとも一時期は仕事でも使ったことがある。

しかし本書は「カフェ」ではなく「カフェー」である。

カフェーは元々今ある「カフェ」と同じくコーヒーなどを出して歓談するようになったのだが、それが女給たちに料理を出してもらう、あるいは好みの女給に会いに行くという、どちらかと、ガールズバーやキャバクラのような所というべきか。

カフェー自体は当初全国的にもあったのだが、本書は京都にフォーカスを当てて、カフェーが生まれ、隆盛を極めてから、衰退するまでの変化を取り上げている。

第一章「京都にカフェーが現れるまで」

日本で初めて「カフェー」が生まれたのは1911年の時である。ちょうど明治時代も終わりに近づいたときのことである。作家の森鴎外が欧州へ留学したときに、元々は陸軍にて医学を勉強するだけだったのが、いつしか文学にも興味を抱いて、「舞姫」などの名作を生み出したのは有名な話である。その森鴎外の名作の中に「うたかたの記」というのがあり、こちらが欧州、特にドイツへ留学したときのことを描いている。そこにカフェーの原型と言えるような描写があり、日本でカフェーが伝えられたはしりとしてある。欧州への留学を経て、カフェーへの憧れが生まれ、やがて東京にも1911年、カフェーが生まれた。また同年11月にも京都にも2店舗開店した。

第二章「初期の京都のカフェー」

初期の頃のカフェーは洋食店であり、給仕の女性も含めて、「ハイカラ」と呼ばれる言葉の中心地として挙げられた。また大正から昭和初期に至っては三高生、現在で言う所の高校~大学生のたまり場であったという。

第三章「1922年の女給人気投票」

また女性の給仕、いわゆる「女給」目当てで来店する人も多くなり、女給の人気投票なるものも存在した。今となってはミスコンを中心としてハラスメントの象徴として扱われるのだが、当時はこういった動きもあった。また人気のカフェー女給では度々新聞に載るほどであり、その記事もいくつか本章にて取り上げている。

第四章「映画・ダンス・カフェー」

京都は「古都」とも言われているのだが、同時に「映画都市」と呼ばれる側面もあった。京都には現在も「映画撮影所」が存在しており、多くの映画を輩出してきた。かつては東京の蒲田や鎌倉の大船なども同様であった。

もっとも当時はサイレントの映画だったのだが、カフェーを題材にした映画もいくつかあり、それが京都の撮影所でつくられたものもある。

またカフェーとしての形態も変化があったが、その変化の内容によっては好ましくないものもあった。それはダンスホールと化していたと言うのがあり、新聞では「淫魔窟」と表現され、警察も取り締まりに動いたほどである。

第五章「ジャズの氾濫と巨大カフェー」

西洋を含めた海外の文化の取り入れが進んだ日本には、音楽もまた海外の音楽が入ってくるようになった。ジャズやシャンソンなどもまたその一つであり、特にジャズはカフェーを中心に広がりを見せた。しかし京都は景観を大事にする地域であるために警察と言うよりも京都府(の保安課)が取り締まりに出るなどをしたという。また近くにある大阪では「赤玉」と呼ばれる巨大カフェーができるようになり、京都でも祇園会館と呼ばれる大型のカフェーもできた。

第六章「カフェー時代の終わり」

カフェーの風潮はだんだんと衰退の一途を辿っていく、取り締まりの強化もあったのかどうか不明だが、通常のコーヒーなどを提供する喫茶店(当時は「純喫茶」とも言われた)が広がりを見せ、京都では昭和一桁~10年代を境に店の数もカフェーと喫茶店で逆転した。それからカフェーは右肩下がりで少なくなり、大東亜戦争後はほぼなくなっていった。

第七章「女給のファッションとカフェー建築」

カフェーの建築や制服のあり方についても誕生してから衰退するまでの間に変化が生じていた。特に制服については「白いエプロン」のイメージが強くあるのだが、そもそもエプロンを着る・着ないのあり方は時代と共に変わっていた。

大東亜戦争後は「カフェー」といった店はほぼなくなっており、それに似た店としてはバーやクラブ(今ではガールズバーやキャバクラ)といったものに変わっていった。しかしそれらの店の源流を辿っていくと、カフェーの名残は残っており、店によっては大正時代や昭和時代を映し出す店の制服にも再現されることが度々ある。カフェーは一つの「文化」として時代を築いたのは紛れもない事実としてある。

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