知識だけあるバカになるな!

本書のタイトルを見るなり、自分の胸に突き刺さるものである。
書評をはじめて2年になるのだが知識しか身についていないかというと、そうではないと言いたいのだが、言い切れない部分も少なからずある。
本書はそんな自分を反省し、これからどのようにして「知」を活かしていくのかという方法を解き明かしている一冊である。

第1章「疑うことから知の方法は始まるが、「正しく疑う」ことの難しさについて」
「疑う」というと哲学で言ったらデカルトの「懐疑哲学」やソクラテスと言ったものを思い出す。両社とも私の好きな哲学者である。とりわけデカルトは「我思う、故に我あり」という名言を遺しているがそれは私の座右の銘でもある。
さて私が書評をしている本の中で大半を占めている一般書。特に研究に関する本を書評することが多いが、どれも多くは「考察」という範疇である。「考察」とはある情報をもとにして解釈を行いつつ、自分なりに仮説をたてていくというものである。答えのない教養においてこの「考察」というのは議論の的となる。そうなりながら仮説がより強固なものになっていったり消失していったりする。
しかしありもしないものから道筋をたてていくのだから学問は所詮泡沫でしかないと考えてしまうのだが、それが実際に役に立つものまであるのだから学問というのは不思議なものであり、考える(または「疑う」)からでこそ面白いとも言える。
知っている(「既知」)の反対は「無知」であるが、一般論としては「悪」という印象が強い。しかし私はそうとは思っていない。というのはソクラテスの「無知の知」というものがある。「無知」というのはむしろ学問として「知っていく」うえでの出発点であり、疑いながらも育んで「既知」にたどり着くことができる。
もっとも「悪」だと思っているのが「誤謬(ごびゅう)の観念」である。紀元前で言ったらソクラテスが「エイロネイア(皮肉)」でもって、その誤謬という名の化けの皮をベロベロはがしていくということを行った。それにソフィストらが怒りソクラテスは処刑に処されたという話である。

第2章「今の日本で大勢を占めている「二項対立」思考の愚について」
「二項対立」というのはとある議題に関して「賛成」と「反対」というように、両極端の意見で戦わせるというようなものがある。最近休刊の著しい「オピニオン誌」。「右翼」・「左翼」という両極端がある。その「二項対立」ではあるが論者によっては多種多様であるので一緒くたにできるようなものではないが。
本章ではその二項対立をなくすための弁償や議論、対話といった方法について書かれている。

第3章「ありきたりな言葉でなく自分の言葉をつかむための「教養」のススメ」
対立による「思考停止」させずにするためには反対派の意見をどう取り入れ、建設的な議論をするというのが「教養」の一つなのかもしれない。
そして教養を深めるためには何よりも「知識」というのが必要である。知識をどのように組み合わせたり、疑ったりしながらどうあるべきかという道筋をたてていくことで深まっていく。何もない所から「思考」や「発想」、「考察」というのは出てこない。必ず「知識」という名の薪がなければ「思考」や「考察」という名の火は点かないのだから。

私はビジネス書のみならず幅広いジャンルを読んで書評を行っている。その中で自分はどのような思考を持つべきかということ、そしてものを疑うこと目を身につけることも目標の一つである(そもそも「目標」はあって無き様なものだが)。それを見直す道標となった一冊であった。