日本人はなぜ「さようなら」と別れるのか

「別れ言葉」というのがある。その「別れ言葉」のは「また会いましょう」や「お元気で」の他に、日本語には「さようなら」が存在する。「さようなら」の語源は「さらば(去らば)」という接続詞からきている。本書はその「さようなら」の成り立ちの歴史について探求した一冊である。

第1章「「さらば」「さようなら」という言葉の歴史」
元々「さらば」という言葉は「接続詞」だったことは最初にも記した。その「さらば(然らば)」の意味は調べてみると、

「1.それならば。それでは。
2.だからといって。それなのに。
3.別れる時にいう挨拶語。さようなら。」「広辞苑 第六版」より)

とある。「竹取物語」といった古典作品は「接続詞」としての「さらば」が使われている。「さらば」が別れ言葉となったのは「後撰和歌集」や「源氏物語」が出た時代、つまり平安時代の前期である。

第2章「死の臨床と死生観」
「さらば」という言葉には「死」とも隣り合わせである。というのは「別れ」という言葉の裏側に「死」も含まれている。その事について「太平記」や「100万回生きたねこ」など作品を取り上げながら考察を行っている。

第3章「日本人の死生観における「今日」の生と「明日」の死」
日本人の「死生観」として「さらば」「さようなら」がどのように描かれたのかを「和歌」を中心に考察を行っているが、その題材の考察道具として和辻哲郎ら民俗学者らの考え方も紹介している。

第4章「「いまは」の思想」
言うまでもなく、感じで言うと「今」という「現在」の時間軸に対する考え方を「死生観」とともに描いている。第3章の延長線上として「いま」に対する考察を行っている印象がある。

第5章「不可避としての「さようなら」―「そうならなければならないならば」」
「さようなら」を漢字で変えてみると「左様なら」
「左様なら」を少し砕けた書き方をすると「そうであるならば」
「そうであるならば」を強制的な表現にすると「そうならなければならないならば」となる。
「さようなら」と「そうならなければならないならば」の関連性は少し遠いがないわけではない、という答えになる。
「さようなら」は「別れなければいけない」という宿命が存在することも本章で取り上げられている。

第6章「「さようなら」と「あきらめ」と「かなしみ」」
「さようなら」に対する解釈は他にもある。
「そうなってしまう」ことへの「あきらめ(諦め)」、そして別れに対する「かなしみ(悲しみ)」といった評価が挙げられるのだが、2つの評価はそれぞれ異なり、主張する論者も異なる。

第7章「出会いと別れの形而上学」
人間における生活には、必ず「出会い」と「別れ」は起こる。それは避けられようのない「宿命」である。しかし「いつ起こる」かというと、「偶然」でしかない。その「偶然」のなかで、いかにとらえるのかについて考察を行っている。

第8章「「さようなら」としての死」
第2章と第3章の延長線上にあるようなところである。「死別」という言葉が存在するのだが、その「死別」における「さようなら」の意味について問い質している。

ごく当たり前に使われる「さようなら」という言葉。その言葉の語源は単純であれど、意味の変遷は歴史や民俗、宗教とともにあったと思えてならない。しかし「さようなら」は人生においてもっとも重要なものであることを本書でもって知らしめてくれる。井伏鱒二の作品に出てくる「『さよなら』だけが人生だ」というが如く。