東京裁判で唯一民間人として、A級戦犯で起訴された思想家・大川周明は天皇主義から、東京裁判を経て、病床でコーランの邦訳を完成し、退院してから1957年に逝去するまでの間は「瑞穂の国」を掲げ、農業活動にも取り組んだ。
本書は「国家主義者」から「大アジア主義」「東京裁判」から「イスラーム」へと変遷した経緯について考察を行っている。
第一章「戦前と戦後をつなぐ想像力」
大川周明の思想は最初にも書いたように「アジア」が大きな鍵を握っている。その「アジア」をめぐる思想は今もなおアジアに横たわっていると言っても過言ではないのだという。今日のイラク、パレスチナ、パキスタン、イランをはじめとした東南アジアや中東諸国における問題は1922年に発表された「復興アジアの諸問題」に該当している。またイスラーム思想も青年の時から「人間とは何か?」を問い続け、出会ったのが「コーラン(古蘭)」だった。
第二章「青年期の転回と晩年の回帰」
大川周明のイスラーム研究は戦前、もとい第一次世界大戦の時代から始まっていた。その証拠として1910年に「神秘的マホメット教」と呼ばれる論文を発表したものがあるからだ。ちなみに「マホメット教」は後に「イスラーム教」という名前になる。その後第一章で取り上げた「復興アジアの諸問題」を発表したのは3年後、そのときから「アジア主義」に転向した。
第三章「日本的オリエンタリスト」
1913年頃から「アジア主義」に転向したのだが、イスラーム思想は完全に捨ててはいなかった。「アジア主義」のなかに、転向するまであった「イスラーム思想」をまぶしており、日本のみならず、アジアの共栄を図っていくような考え方をしていた。
第四章「アジア論から天皇論へ」
アジア主義から日本そのものの歴史と思想に触れ始めたのは、1921年の「日本文明史」が発表されたときである。そこから日本の歴史にまつわる研究を行い、1939年に「日本二千六百年史」が発表された(ちなみに「天皇」を「専制者」と表記したのに際し、不敬罪となり、1940年に修正された)。その日本文明の研究と同時に、アジアにおける植民地の研究を行い、両方の研究成果が大東亜戦争におけるラジオ演説に繋がった。
第五章「東京裁判とイラク問題」
大東亜戦争に敗戦し、A級戦犯として逮捕・起訴された。しかし東京裁判の第1回公判の時、前の席にいた東条英機の禿頭を叩き続け、「インド人よ来たれ!」「イッツア、コメディ!」「アイ・アイ・シンク」と奇声を上げたことにより、退廷され、精神鑑定にかけられた。その後「梅毒」と診断され、免訴されたのは有名な話である。免訴後入院し、コーランを邦訳したのは最初に書いた通りである。
本章のタイトルにある「イラク問題」と「東京裁判」の関連性は「勝者の裁き」という名のもとに、勝者に対し都合の良い形で流れ、判決になるような形にある。
大川周明とアジア、大川周明とイスラームという関連性は若干知ってはいたけれど、まだまだ横たわっているものは存在しており、それも未だに解明できていないものがあったこと、さらに今でも大川周明の思想が根付いていることを気付かせた一冊である。
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