原作と同じじゃなきゃダメですか?

今年の夏から秋にかけて、著作権に関する大きな係争が2つ起こった。一つは著作権とは関わりは薄ものの「誓い~奇跡のシンガー~」という舞台が、主役の度重なる稽古欠席に伴い、公演中止になったことにまつわることについて、もう一つは裁判沙汰になっていないもののマンガ「テルマエ・ロマエ」を連載している雑誌の付録について、原作者と出版社の諍いがある。

特に前者は、あくまで公演中止にあった原因は主演の度重なる稽古中止による公演中止による損害賠償であるが、そのウラには原案となった小説の作者の無許可で脚本を描いていたかどうかも絡んでいるという。ちなみにこの訴訟の第1回裁判は10月7日である
そのことから原作者・脚本、あるいは原作者・出版社の関わりについて改めて見直す必要がある。その一つの題材として映画「やわらかい生活」における裁判の一部始終について本書を通じて見ていこうを思う。

第1章「「やわらかい生活裁判」を考える」
最初は「やわらかい生活裁判」が全て集結した後の直後に行われた2つのシンポジウムが行われたものを記録している。全面的に脚本家側の敗訴となり、不満があったのだが、主に、裁判に至った経緯から主張、不満をぶつけている。
なぜ裁判を始めたのか。その経緯について書く必要がある。元々は絲山秋子の小説「イッツ・オンリー・トーク」が「やわらかい生活」として2006年に映画化された。その映画は数々の映画祭に出品され、賞こそは取れなかったものの話題となった。後に脚本家が小説を元にした「脚本」を出版しようとしたが、原作者の絲山氏が拒否し、出版されなかった。映画化に関して両者は契約を結んでいたのだが、脚本家側はその契約を違反したとして東京地裁に提訴されたことが発端である。地裁・高裁(知財)・最高裁まで発展したが、全ての審理で原告側(脚本家)の全面敗訴の結果だった。
裁判の争点としては著作権、と言うよりも憲法で定められている「表現の自由」であった。著作権の裁判ではなく、あくまで「憲法裁判」であることを主張していたため、最高裁まで上告された。

第2章「「やわらかい生活裁判」を探る」
この裁判で脚本家、及び原作者に投げかけたもの、それは「メディアミックス戦略」と「原作に忠実であること」のジレンマである。
作品によっては原作・映画など多角的に行うにあたり、原作をカーボンコピーするようなものもあれば、映画などに合わせて多少改変することもある。その改変の有無、もしくは規模によって原作者と脚本家とのトラブルになるケースもある。しかし脚本家も自信の表現の仕方や考え方がある。ましてや表現の自由があるのだから原作者のロボットになっていてはつとまらない、というのが本書にある脚本家やプロデューサー達の主張である。

第3章「戦後日本映画史が語る脚本と原作の関係」
原作が映画・ドラマ・アニメ化される際に脚色を加えることが多い。その「脚色」が原作舎から見て「気に入らない」「原作の魅力が無くなっている」というような主張をする人もいる。その「脚色」によってトラブルを起こすようなこともある。本章では脚本・原作それぞれの関係性について戦後日本の映画と小説の関係とともに考察している。

第4章「「やわらかい生活裁判」全記録」
本章は「やわらかい生活裁判」の提訴から最高裁に至るまでの訴状・陳述書・判決文などを全て記載している。なお最後は「最高裁」と書いたのだが、最高裁で審理されたわけではなく、最高裁の上告が「不受理」されたことで、今回の裁判は終了している。

私も映画やアニメ、舞台などを観る立場であるのだが、原作に100%忠実に描かれることは、原作者が脚本家を兼ねて舞台や映画化されるようなことが無い限りほとんど無いと思う。当然脚本家には自分自身の表現があると同時に、原作者の考えを活かす、ということも必要である。だとしたら本書のタイトルにあるような疑問について私はどう答えるか。それは「ケースバイケースによって異なる」と答える他ない。